
どうだろう。今はこうして一人で座っているものの、例えばこの膝の上に一匹の犬でも乗ってきたというのならば。
犬の重み、犬の厚み、犬の体温。それは私にとっての歓び。
ひとつの生命がこの膝の上で何の不安も不満も無く極度にだらだらとリラックスしているというのならば。
ならば私はこう思うだらう。
「これは人生の成功者のよるこび(歓び)でっしゃら。」
そしてこうも思うだらう。
「しかしもしこれが犬やなくて虎やったら死も視野に入れていかなあかん。だから犬でよかった。」
犬ははへっへへっへと舌を出しつつどこを眺めるでもなく眺め、どこかで音がしたならばそちらを向いてみたり、たまに私を見上げてみては「起きてる?ミーのこと意識してる?」みたいな顔をしてみたり、前足にアゴを乗せてあくびをしてみたり、一言で言うと可愛い。愛くるしい。キュートでありキューティーである。チャーミーでもある。
そんなプレッピーな犬が本当にトゥッティーで。
いや、ちょっと待って。
嗚呼、あまりにも膝上のこの犬が可愛すぎてこのまま我が上体を前へバタンと倒して犬を潰してしまいたい。プレスしてしまいたい…。そんな歪んだ愛情表現を試してみたくなるほどに、犬が可愛すぎて。
これがもしハムスターならば握り潰したいという歪んだ愛情表現を試してみたくなることだろう。
これがもし人間の男の子で三歳児であればまず正座をさせて、私はその背中めがけて助走をつけて「ここだ!」というポイントで思い切り蹴るという歪んだ愛情表現を試してみたくなることだろう。
これがもしアーティチョークならばまずは「簡単晩御飯、今日の主役はこれ、アーティチョーク。」とか言うてアーティチョークを持ってカメラ目線を決めているヤツが居て、俺は、は?アーティチョーク?その今おまえが持ってんのがそうなん?なにそれ。初めて見たんですけど(笑)きしょ。そんなんシミママ(清水ママセンター)には売ってなかったよ?そんなワケのわからない物を晩御飯の主役にするわけにはいきません。帰ってもらえますか。といってテレビを叩き壊すという歪んだ愛情表現をすることだろう。
しかしそれらはあくまでも頭の中だけで考えているだけの歪んだ愛情表現であり実際にこれを実行するつもりもなければアーティチョークを買いにシミママとは違うスーパーに行くつもりも無いので私はこれからも変わることなく膝上で犬をダラダラさせたいと思い続けるし、それは実際に可能であると信じて生きていくことにしようと思っている。
だってそれが私に与えられた幸福論の一つでもあるのだから…。