何を言う

 

森の小径をシャラランと歩いているとどうでしょう。およそ6米先12時の方向に見えるはほら、キツネではありませんか。

かわいい…。

このままキツネに近寄れば威嚇もされるでしょう。獣くさいでしょう。吐く息も臭いはずです。また、美しい毛並みではありますが、触れてみれば体温を逃さないためにかなり油っぽい毛質のはずですし、何かの菌を持っていないとも限りません。つまり最悪です。君子危うきに近寄らずと言いますから、もしもこの場に君子がいれば「やあ、我は君子。ややっ、キツネやんけ。危うき。やめとこやめとこ。」といって私の、そしてあなたの袖を引っ張ってびっくりドンキーに昼を食べに行くという本懐を遂げるためにそそくさとこの森の小径を後にすることでしょう。

しかし私とあなたは幸いにして(?)友人に君子、と呼べる者がただの一人も存在しないため危うきにもガンガン近寄りますし、ノン・スリーブで天ぷらを調理しますし、レバレッジをふんだんに使った取り引きにも手を出します。つまり、肉を切らして骨を断つ。痛そう(泣き)。ということなのです。違いますけど。

なのでこんな森の小径でキツネに出会ってしまったからには何としてもフル・コンタクトのコミニュケーションを執行したい。愛を注ぎ、また愛を注がれたい。と願ってしまう悲しき生き物なのです。悲しいですよね。

 

だのでキツネを呼ぶことにいたしましょう。

しかし野生動物なんて警戒心の塊みたいなもんなのに、ましてや町中でくらす野良猫たちのようにヒトに慣れてもいない野生動物なんて警戒心の塊みたいなもんなのに、警戒心が毛皮を纏って森で毛づくろいをしたりウンチをしているようなもんなのに、そんな簡単にキツネは私に、そしてあなたに心を許してくれるのでしょうか。

答えは、いけます。オッケーです。

あなたの心配をよそに私は私なりのやり方でキツネを随意に呼ぶことができるのです。

やってみましょう。

まずは目線をキツネと同じところまで落とし、攻撃の象徴である歯を見せぬように口をすぼめ、アホ丸出しの顔面で私は囁きます。

「るーるるる、るーるるるる」

するとどうでしょう。あなたは隣で突如白痴と成り果てた私を見て口に出さずともこう思うはずです。

「は?」

それはごもっともなんですがちょっと待ってください。私たちの目的であるキツネを呼ぶ、フル・コミュニケーションをとるということについてはどうでしょう。

ではキツネはどうでしょう。

どうですか?哺乳類にしては珍しく完全に何の感情も無い顔で私のことを茫と見ているのみで、こんなアホに呼びつけられてホイホイ近寄っていく奴があるかいボケ、というような意思がヴィンナヴィンナに見てとれますよね。

しかしよく考えてください。当の本人である私のことを忘れているのではないでしょうか。私は私なりのこのやり方を信じています。信じてキツネを呼んでおります。

さて私はどうでしょう。

「るーるるる、るーるるるる」

相変わらずのアホ面で必死にキツネを呼んでおります。しかし本心では何を思っているのか、もしかしたら自分のやり方を信じ切れていないのか、アホらしいと思っているのか、こんなことで近寄ってくるようなアホギツネに用はないと思っているのか、その目尻には少し光るものが光っているようにも見えました。

 

つまり、キツネとあなたと私。三者全員がこの短い人生の中でクソ無駄な時間を過ごしているということで、こんなことなら初めからキツネになんて出会わなければよかった。そしたら全て丸あるく収まったものを…(泣き)。

 

と今更嘆いたところで過ぎ去った時は決して戻ることはないのである。これを賢い言い方をして、不可逆、という。たぶん合っていると思う。