
駅近くのバス停にて、二人の大人の男性が話している声を、私は秋の風の中でかすかに聞いて。
「東京て高ぁいビルが多くて、よくコンクリートジャングルって言われるだろ。ビルが多くてまるで(like a)ジャングルの木々みたいのことだなぁと言われるだろ。
しかしね、僕から言わせれば東京はコンクリートジャングルというよりは人のジャングルだ。人が多くてまるでジャングルの木々のようだなぁと思う。人ジャングルなんだね。」
「なるほど、お話聞かせて頂きました。
つまりあなたは東京はコンクリートジャングルというだけではなく人ジャングルでもあると考えておられるわけですね。
しかしここで心配なのはコンクリートジャングルと人ジャングル、ふたつのジャングルが此処東京という場所に同時に存在しており、いうなれば此処はダブルジャングルであるということになる。しかし此の世にはジャングルがひとつの場所に同時に存在するなどという場所は無く、つまりダブルジャングルになっている場所など存在せず、ということはダブルジャングルである此処東京も存在していないということになるのではないか。
では今私たちがバスを待っているこの西荻窪のバス停もまるで存在していないということになるし、存在しない場所でバスを待つ私たちも存在していないということになる。
私たちはこんなにもお互いの存在を認識しあってコンクリートジャングルだの人ジャングルだの出ましたダブルジャングルだよ、と熱き青春の迸りのような議論を迸らせているのに、そんな私たちも、この場所も、流れる時間も、全てが存在していないなんていうのは最新の悲劇だね。悲しいことだし嫌だね。どう?存在してる?」
それを聞いてもう片方の大人の男性は、まさかそんなに喋るとは思わなかったし、話が飛躍するとは思わなかった。
俺は此処東京をただのコンクリートジャングルというだけではなく人もジャングルの木々くらい居る。よね。ということを思っています。ということを発表して感心して共感してもらえれば御の字くらいの気持ちで言っただけであるのに此奴はあまつさえダブルジャングルなる新出の単語まで作り出して挙句我々が存在してすらいないんじゃないの?存在してる?みたいな極めて意味不明なしかしなんか深い考えがありそうなことをほざきやがってからに。ええ加減に答えたら俺がアッパラパのアホッパチみたいなことになるげな。それって損じゃん。イヤじゃん。みたいな顔をして返答をせず、暫し黙り込んでいるのみであった。
昭和の時代を撃ち抜いた論客として知られたこの男性とあっても寄る年波には勝たれないのか。
私は老いていくことへの一抹の悲しみを感じながら、まだ来ないバスを待っていた。
その時、急転直下のアレで事態はなんかしらの変わり具合を見せ始めた。困り果てていた論客が急に閉ざしていた口を開いたのである。
「いや、吾輩はコンジャンの中に人ジャンがあるという意味で言った。そして我々は此処東京ではコンクリートよりは人と関わって生活していることが多いので、コンクリート屋さんを除いては大抵の場合その筈なのでコンジャン"というよりは"人ジャンだよね、という言い方をしたんです。
てゆーか本物のジャングル、いわゆる本ジャンにも何も木々だけがあるワケではなく虫もいればバットもいる。つまり本ジャンの中に虫ジャンがありバットジャンがあるやんかいさ。つまりコンジャンと人ジャンはダブルジャングルなどではなく、普通に成り立っているということをわかってほしいねん。そこやねん、吾輩が言いたいのは。てゆーかダブルジャングルが此の世には存在しないからってだならダブルジャングルである此処東京は存在しない、我々も存在してないって、そんなもんただの比喩として人ジャンって吾輩は言ってそれがダブルジャングルということになっただけで、そもそもジャングルではないワケだから普通に存在するよね。それを分かってほしいよね。」
昭和の時代を撃ち抜いた論客のこの反論を聞いてもう片方の大人の男性、通称平成に愛された論客も返す刀で答える。
「なるほど。あなたはひとつの比喩として此処東京を人ジャンと言ったと。まあそもそもコンジャンも比喩ですからね。なるほど。たしかにその考え方であれば我々も東京も存在するし、今こうして話し合っていることもたしかに現実の地球の上で起こっているということになる。こんなに価値のあることがございましょうか。存在して価値があるとわかれば次の行動に移るのが人間というもの。しかも此処にはあなたと私が居る。なのでどうでしょう。二人で漫才コンビを組みましょうよ。私のボケにあなたがつっこめばいいのでは?
コンビ名はもちろん、ダブルジャングル。」
これがあの伝説の漫才コンビ「ダブルジャングル」の誕生ヒストリーである。
晩秋のことであった。