
俺はいくつになってもありとあらゆる事柄に対して好奇心を持って接し、探究心を持って接し、疑問を持って接するということがとても大事なんじゃないかなって思う。普段からそう思う。
齢がいってしまったが故に何事にも経験豊富な私をアッピールしようとなまじ普段から歩く百科事典みたいな顔をしているばっかりに素直に他人にものを訊ねられずに知ったかぶりでその場をしのいで、
「嗚呼、知ってる知ってる。でもこんな日の浅い時間からの下ネタは、おじさんちょっと関心しかねるな。」
なんて適当な返答をして若者達の不興を買うなんてな老後は考えただけでみっともなくて玉がつるつるになるわ。(実際には玉はつるつるにはなっては御座いません。今日もシワシワで御座います。)
だので私はたといいくつになろうが疑問に思ったことは素直に訊くし、いくつになろうが甘えん坊でいたいし、いくつになろうがインダストリアルメタルとかを聴きたいし。
そこで疑問となってくるのがやはり、他人に物事をどう訊ねるべきか、ということになってくる。
物事を訊ねる、ということは即ち、俺は知らぬが相手は知っている、ということで、そして、訊ねる、ということは要するに、私には知り得ぬことを相手に教えていただく、ということで、だのでつまり当たり前のように訊ねる側である私が居丈高に、俺はそれを知らぬよで教えよ、なんて命令口調で命令するのはこれは物事を教えていただく側の態度としてはあまり褒められたものでは無く、可能であれば出来るだけ平身低頭に、培ってきたプライドの全てをかなぐり捨てて、実るほど頭を垂れる稲穂かな、どうかな?稲穂だよね?と手前を納得させて訊ねなければならぬ。前述が如く居丈高に、武士は食わねど高楊枝に疑問をぶつければたちどころに若者達の不興を買い、みっともなく玉だけやたらつるつるの独居老人に成り果てるやも知れぬ。だのでここは乾坤一擲、なるべく平身低頭に、ペコペコして。
「この"ワンチャン"というのはどういう意味だろう。前後の文脈から考えて犬のことではなさそうだし、おじさん疑問だな。」
しかしこれは最低最悪の質問の仕方である。ウナギのぼりである。
何がいけないかって、よく読めばこれは質問とみせかけた命令なのだからね。
どこが命令であるのかというと、この「どういう意味なのだろう。」というのは一見若者言葉にビビッドに反応し、しかもこれを受け入れあまつさえ日常生活で使用することも厭わないといった態度なように見えてしかしこれは素直とは全く程遠い物の尋ね方で、何がいけないのかというと、これは厳密にいえば物を尋ねていないのである。
それはどういうことかと言うと、「どういう意味なのだろう。」と私はこの言葉の意味を知らぬ下賤なチンカスみたいなもんですわ、とへりくだっているように見えて実は、
「どういう意味なのだろう。(どういう意味か判らぬ、ということを独り言かのように言ったので私の周囲に侍りし者は私の何がしかを察しこの疑問に答えよ)」
というとんでもない居丈高に開けっぴろげな疑問の呈し方であったのであったのであったのである。これぞおじさん特有の「察しろ」という謎の処世術で、しかも情けないことには、おじさんは若者に対しては「察し」とやらを盛んに要求するのであるが、当のおじさん達は若者の言いたいこと、言葉足らずなところを「察する」でもなく一から十までキッチリ説明をさせては重箱の隅を突くような意地悪な質問をしてストレスを解消するという、これぞまさに歪んだ現代社会が産んだ倫理のチンカス化け物でなのであーる。
この「前後の文脈から考えて犬のことではなさそうだし」というのもいただけない。最低の人間であると言い切れる。
若者のみなさまならば説明せずとも判ると思うのだが、これは”ワンチャン"と"ワンちゃん"をかけた一種のおやじギャグユーモアの類なるものであるが、問題はそれが全然おもんないというところである。
想像してほしい。ええ歳いったおじさんが若者に対してウケるかな?ウケないかな?面白いことを言っているのだけれども、なんて考えつ周囲を上目遣いで睨め回す様子を。どうだろうか。そんなもん時代の終わりである。
若者に対してフランクな雰囲気を出そうとユーモアで斬りこもうとするのは最も悪手と言われているということを今一度念頭に置いて、日常生活の中でろくに若者から笑いをとれていないのであればそんなもん質問の時にいきなりユーモアをぶち込んできても不毛な空気が流れるのみなのである。それを信じていてください。
そして極めつけはこの「おじさん疑問だな。」という箇所である。およそ最低である。
一見、我こそはおじさんである故にパッパラパーのチンポッポである故に若者たちよ、この哀れなおじさんに物事を教えてください。土下座も厭いません。といった感じに聞こえなくもないこの一言であるし、たしかにおじさんとは疎まれ蔑まれ、蹴っ飛ばされて然るべきな存在が大多数を占めるのも事実であるが、問題は自分で自分のことを、てめぇでてめぇのことを”おじさん”と呼称しているところにある。
若者の間では、おじさんが自分で自分のことを”おじさん”と呼称することは暴力であるといわれている。
何故ならば自分で自分のことを”おじさん”と呼称する場合、その場には自分よりも年長の者が居ない場合が大半である。
つまり自分で自分のことを”おじさん”と呼称することは「この場で一番年長の者、尊い者こそ私である。敬うことはもちろん、各種手厚いケア、それはつまり杯が乾けば酌をし、サラダならベーコンは多めで取り分け、多少つまらぬ話であっても大爆笑で応えよ、あと説教するのは君のためを思ってではなく私自身の陶酔のためではあるが、君たちは「とても勉強になりました。身に沁みました。」といった万感の感動をもって応えよ。」と口に出さずとも言っているようなものだからなんです。
要するにこの、
「この"ワンチャン"というのはどういう意味だろう。前後の文脈から考えて犬のことではなさそうだし、おじさん疑問だな。」
という質問の仕方は最低最悪であり、こんなことなら無闇に様々なことに疑問を持たず、隅っこの方で臭くなっといてくれた方がよほどマシなのではありますが、どうしても年甲斐もなく若者に物を訊ねる機会があったならばそこはとてつもなく素直に、
「この”ワンチャン”ってなんですの?」
と努めてソリッドに、余計な修飾をせずに訊ねることが一番良いかと思います。間違えても(これはおじさんにありがちなのだが)オリジナリティを出したい、若者の、てゆーかギャルのお眼鏡に叶いたい、小さな笑いが欲しい、なんて色気を出して「この”ワンチャン”ってのはなんだんの?」と言ってみたり「この”ワンチャン”ってのはなんどすえ?」などといった私だけのオリジナルヴァージョンの使用は控えた方雨が良いと思いますが。