
いや、そんな、イキナリのイキナリで藪からブーにたんたんとグロリア(新之助)なんて言われても困るというかテンパるというか、そもそも意味がわからんずれ、となりてアンダルシアの成りたてパンクス、機械仕掛けのダッチワイフに成り果ててしまう故にたんたんとグロリア(されど新之助)などと藪からバボに言われても困るという爆裂キッズっぷりで、なんとなればぷりぷり、おしり、ぷりぷりーんと騒ぎ立て、あべこべだ猫じゃらし、おしりだって生き物さ、とこの世の常識を繰り返し振り返りぶり返し、ぷりぷり返して楽しんで、知らぬ間に夜は明けっぴろげっちゃんでまさに、空に芥、絹にボケ。
しかし言われてしまったからにはしょうがなくてはならぬよ生姜焼き(オモロイ)。たんたんとグロリア(中でも新之助)とやらのことに関してそれなりに質問をして差し上げないと、せっかくたんたんとグロリア(良くて新之助)といった謎が深まるばかりのワードを藪からボエからザックリと投げかけてくれたこの愛しき玉藻のような愛しきにいささか失礼なのではなかろうかという思いも無いわけではなく、それに私なんかは特に思い込みのしやすい体質なもので例えば少しガタイの良き男性が二人で朗らかに散歩やら買い物やらをしておられるだけで「あなや、もしかしてもしやのやしもであの御二方、男色ゲイでは?」と思ってしまうフシのあるし、今だってたんたんとグロリア(そして新之助)と聞いて、ああ、これは「たんたん」と「グロリア(最中の新之助)」という二人の好色人物が織り成すハーモニアのことであるよなぁ、と思い込んでいるわけで、しかし真実は違って、その「たんたん」はひょいとすると「淡々と」の「たんたん」で、そうなると「淡々とグロリア(まさに新之助)」というグロリア(バハサ新之助)の哀しみを押し殺した行動の全てを表しているのことかもしれぬし逆に、「たんたん」は此方の読み通り或る好色人物の名に他ならず、しかし「グロリア(ザッツ新之助)」とやらは実はクルマのグロリアのことで、「たんたん」と「グロリア(おっと新之助)」の種族を越えた哀しい恋の物語の全てを表しているのことかも知れぬ。
その辺の認識の違いが後に一事が万事塞翁が馬の晴天の霹靂で、そして曇天のヘベレケへの直接的な間接的要因になり得るということは余程のアホでも無い限り分かりそうなものですけども、意外とこれをわかっていない者も多く、多くの者は思い込みを思い込んだままそのままゴーズオンして挙句、ほらやはり二進も三進もいかれなくなって泣きつきたるは何処ぞ誰ぞの占星術の先生であり、ああいった占星術の先生という人々は人々の不安の種が飯の種、
"人々の 不安の種が 飯の種"
という占星術の先生を皮肉った嘘かホンマかわからぬ今考えた標語もあるくらいなので多分マジ情報なのでしょうが、だからそうして足元を見られて10分200円とかいう法外もええトコの値で占いてもらいまするに、
「図らずも、このままいくとアレだわ。アレ。この世はすなわち、空に芥、絹にボケ。ヘゲタレ猫のポンポンチキに成り果てりてやがてグルーヴは消滅するわ尻は滅裂するわの阿鼻叫喚の地獄の其処此処と成り果てりて其方も死ぬるし私とて死に、お互いに死ぬという、てゆーかみんな基本的には死ぬし大不幸になるので最悪なのですが、しかしご安心くださいませませ。私こと占星術の先生が独自の研究と泣くに泣けない研究の果てに終ぞ完成せしめましたるこの奇跡の儀式"ごっそり八兵衛"さえ行えばこの世はたちまち移動動物園のような楽しきと変化し、パーティーバーレルのような心持ちで誰もが人生をサーフできるようになることでしょう。マジで。なので私はこれからもこの"ごっそり八兵衛"の止むに止まれぬ研究を続け、そして終ぞ完成せしむる日を夢見てこれからも恋に仕事にがんばって行きますんでよろぴく饅頭の糞マンション。」
そう、占星術の先生とはいえ研究で忙しい時くらいあるのだから此方の都合で桃源郷の光の何処をゲトるにはどうすればいいの?なんて遮二無二質問したところで答えに窮されるのキュッキュのキュの場合もあるし、歩く百科事典、いやそれどころか、歩くし座るし飯も食えば談笑もそれなりにする百科事典と呼ばれている人が「たんたんとグロリア(西荻の新之助)」とイキナリで藪からボンッと口走りたくなる瞬間があるのは仕方ないことであると考えますから、その不意に口走りてしまった言葉に対して殊の外「え?今のどういう意味?確実に理解出来るまで説明して?俺が。いや俺に。」と不粋も不粋、もうシンプルにブスなアクションを叩きつけて百科事典を困らせるというのも今考えると大人気のないことのような気がしうつらうつらとしてきたのでこのたんたんとグロリア(初めは新之助)に対しての追求詰問は今回ばかりは廃しておこうのことかしら。