熱き太陽のバック

 

こんなにも暑い季節の変わり目の中で、私は消えそうになりそうな自我をなんとか保って平静を装って健気に微笑んで、「うわぁん、けなげ~。」なんてことをいつ言われてもおかしくないそんな私の微笑みで、そんな自分が可笑しくなってきて、私はまた一層微笑みを強めて。

 

この身を焦がして蒸散させて、やがて母なる大地に還らせてくれてしまいそうなこの暑い日差しの下、私は本当に健気に自我をギリで保ってこうして微笑みをたたえてこのあまりに大きな、大きすぎな太陽の下でジリジリとしながらまんじりともせず健気で居続け、私とて自分がここまで自我をギリで保つほどの追い込まれし状況に陥るなどとは露ほども考えておりませんでしたから、こうなればせめてクソの足しにでもなればと眼を見開いて世を睥睨しておりまして青い時代には、たとえば、敵をなるべく傷付けずに組み伏せたり場合によっては落としたりして制圧することを目的とした格闘技なんかは、だったら初めから話し合いで解決せれば良いのに、なんて考えていた青い時代でありましたが、今となっては、嗚呼、相手が話し合いに応じる気配が無いから仕方なく技に持ち込むという状況を想定した格闘技であったのだなって、考え直すことが出来て、しかし話し合いに応じない時点で相手は此方をともすれば殺しにかかってきているわけですから、ならば此方も殺す気で、「我々、極力相手に怪我をさせなぁ~い、傷付けなぁ~い。」なんて日和ったことは言わずに初手から全力で、持てる技術の全てを駆使してボコボコにしてやってもええのんとちゃいますか、違いますか、みたいな考え方も未だに持ってしまっているもので、だとしたらやはり私は未だ青い時代に居る。残念ながらそんな青い時代、こそばゆい青い時代を生きているという証拠になるよなあ。

 

そんな青い時代の真っ只中にいる私がこの暑すぎる季節の変わり目の中でバスバスに元気出てきてる真っ赤な太陽に後ろから照らされているというのはいかな皮肉でありましょうか。これをマザーファッカーと言わずになんと言うのでしょうか。無理しすぎ、とでも言うのでしょうか。自分だけが被害者だと思いすぎ、とでも言うのでしょうか。白すぎて驚きの白さ、とでも言うのでしょうか。言わないのでしょうか。

 

いずれにしてもこの青い時代の私を照らす真っ赤な太陽は、これは青と赤の見事な対比を表現しており、鮮烈なイメージを伴って皆さんをニューホライズンへ連れて行けていると考えて間違い無いのであると思いますが、実はこの対比の表現というのが非常に(もしくは異常に)大事とされており(誰に?)、私は常に対比、相反する二つのモノの同居、アンビバレンツの二律背反のマッチポンプの交錯の中を飛ぶように行ったり来たり、いくよ・くるよ的な発想でもってジャンピンをジャックフラッシュしておまっしゃる次第なのでありますが、そういう意味では白き精液から赤ちゃんが出来るというのもこれは立派な対比となっており、しかも赤とは紅、すなわち紅白の対比となりておりとても目出度く、ああ、さっきから時折「良しな、これぞ天下泰平!」という咆哮が聞こえてくるのはそのせいか、と一際セクシーに納得も得心もいくといった寸法でこれならなんとなればこの自我をギリで保っているタモツみたいな状況もギリでクリア出来てしまいそうな気すらしていて、たしかに太陽はその熱をいやまして上げて、イヤンイヤンな感じにいやましてキツイことには変わりないのでありますが、これはある意味では私という俺のひとつの挑戦の軌跡であり、真っ赤な太陽を背に受けて、すなわちバックに受けて立ち尽くす私の姿は見事なまでのアタック、静の中のアタックを示しておりそれは何故かと聞かれるば、だって今俺は"熱き太陽のバック"。つまり、

「あ」つき(熱き)

「た」いようの(太陽の)ば

「っ」

「く」(バック)

と成っておりここからは言わずもがな、アタックに成っているではありませんか。

 

応援していただいて構いませんもの。声援を送っていただいて構いませんもの。

私は一人の俺としてこんなにも暑い季節の変わり目の中でこうして静かなる真っ向勝負で挑んでいるではありませんか。何に対してかというと、それは何か大きなものに対してです。

 

しかも私は青い時代で、そんな私を照らすのは真っ赤な太陽で対比の出来ていて、加えて俺は白い精液から出来た赤ちゃんであった過去なのでここにももうひとつの対比が出来ていて、挙句そんな過去の紅白の対比がこの世に生を受ける時の対比であるが、対して今現在の俺は油断すれば蒸散せられてしまいそうなこの状況、すなわち死に近づいている状況であるからここにも生と死の対比の出来上がっており、一人で3つの対比を携えている俺だと考えれば、あら?なんか自我が保て続けそうな気のしてきたやも。