
口には出しづらいそんなことも、どれだけ叫んでも届かない想いも、少し口には出しづらい想いも、屁に言わせれば、あわよくば屁に言わせられれば、と私たちは都合よく屁の都合も考えずに屁に物を言わせようとしがちな私たちですが、それが屁にとってどれほど重圧を感じることで、そしてどれだけ負担をかけてしまうことになるか、ということを我々人類は今一度考え直した方が良いのかという時代に差し掛かっております。
なんでもかんでも己が口では吐かさずに、なんとなれば屁によって物を言ってもらってしまおう、屁にアドバイザー的な役割を担ってもらおう。もっと酷くなってくると、屁に言わせれば、屁に言わせさえすれば自分は責任を取らなくても良いと、己がひった屁にも関わらず、それは屁が言うたことやさかい、といった態度で押し通せると思い込み、テメエは安全な場所でお芋でも喰らいながら屁の言われよう追求されようをあまつさえ愉快なとすら思い、穢れた笑みをその醜悪なフェイスにたたえながらブランデーを舐めていられれば良いと考えている大人のなんと多いことか。
そんな情けない、それこそ屁のつっぱりにもなり得ぬようなオリジナリティ溢るる葛饅頭が近年稀に見る勢いで、それこそダウ平均株価のようにエゲツないことになってしまっているというこの惨状ではあるが、しかし助かることには、屁にいくら物を言わせらるればなと願ったところで、それは絵空事の屁空事。実際に屁が「ぬははっ!我輩はほぼゴリラである!」なんて言って朗らかに、そして心豊かに物を言い出すなんてことは有り得ぬわけで、もしあるとしてもアナルの具合が奇跡的に人間の口腔と似たよな形になってヒト語で物を言った"ように"聞こえたという程度のことであろう。
そりゃあひった屁が偶然にも「ブランチ」や「プランチャー」、「ペイズリー」と聞こえてしまうことはあるにはあるだろうが、それは意思を持って物を言ったわけではなく、ただ単純に、人間の都合で面白い感じに空耳しただけのことで当の屁にとっては「ただ、ひられたから出たのみ」という心頭滅却された、尻が滅裂されただけのただの日常のいち風景にすぎず、それを人間特有の身勝手な暁の拡大解釈によって「こ、これは!もしやのやしも、この雰囲気で突き詰めていけば屁に物を言わせられる日も夢物語ではないのでは?」とワクワクして屁に物を言わせるための研究をし始め、これを称して"言いにくいことを代わりに屁に言ってもらうの大作戦"として日夜何か物を言っているように聞こえた屁の報告のやり取りをし合っているという有様で、よせば良いのに「今年度最優秀屁に物言わせたで賞」なる奇妙な賞を設け、最優秀グランぷぅ~リの受賞者には副賞として高級温水洗浄便座が貰えるというちょっと魅力っぷりでまあ一生やっとけやとしか言えないのでありますが当の本人達は屁をひることで賞賛もされるし、この一芸を極めれば全ての責任を屁に押し付けられるということで迷いながらも楽しみ、そして真っ直ぐに屁に物を言わせる研究に必死になっているのである。
しかし、動機はどうあれ何かに夢中になれるというのは素晴らしきことで、屁の研究を真面目に始めて、同じ志を持つ仲間と出会い互いに切磋琢磨(本人達は「屁磋琢磨(へっさたくま)」と言っている)することによって生活に張りが出て腸の調子もアガり、1人孤独に研究をしていた時よりも随分と屁が物を言っているように聞こえるようになったと言って喜んでいるし、研究者仲間と年に一回は温泉旅行に行ったり、みんなで河川敷に集まりてバーベキューをする等のレジャーも楽しんでいるようなので、当然これを外野がとやかく言う道理は無く、いくら歪んだ目的を持つ集団とは言え社会人同士の趣味のサークルと考えればそんなに目くじら立てずに笑って赦せる日が来るよってに。