
晴れた日は山へ行くと良い。山は良い。木々のざわめき小鳥のさえずり、小川も流れりゃ滝もある。およそ大事なものの全てが山には隠れている。いや、隠れてはいない。山は隠し事はしない。およそ大事なものの全てがあれよあれよとそれはそれは丸出しにて置いてある。存在している。
山には羞恥心というものがないのだろうか。だとしたら、そんなズベ公に私たちのような理性も羞恥心もそれなりに携えている人間が学ぶことなどあるのだろうか。
無いかもしれないですね。無いかも。
しかし不思議なもので、人間は山に惹かれるのです。
週末とあれば何かに導かれるようにザックを用意し入山して行くのです。水筒を用意して入山して行くのです。てゆーか水筒もザックの中に入れるわけですから、ザックを用意するということは即ち水筒も用意するということである、と分かっていただけたでしょうか。
窓の外からチンドン屋の憔悴が伝わってくるよな午後です。
そして山にあると言われているおよそ大事なものの全てとやらを全身にて享受しに行くわけなのです。それは緑、それは青、それは赤、そしてそれは目には見えない音、匂い。その時その瞬間だけは、納められていない各種税金や保険料、年金のこと、そんな所帯染みたことを考えるのは廃して、あなたの心の大好きの思うままに、そう、大好きなオムライスや焼きそばなんかのことを考えつ、そんな山のオフロードを無理矢理にしかし豪胆にキックボードで駆け抜ければよいではないでしょうか。
冗談では済まされない危険な道のりを、インラインスケートで駆け抜ければよいのではないでしょうか。
これは単なるお節介などでは決してありません。心の気持ちでおススメしております。だって私は聞いたのですから、もみあげと髭が繋がったおじさんに。顔面のそのほとんどが毛で覆われたむさ苦しきおじさんに…。
おじさんは言っていました。
「山にはおよそ(正確には「およそ」ではなく「おおよそ」と発音していたが)大事なものの全てがある。」
と。まあそれは前述のとおりですからわざわざおじさんに言われなくとも分かりますよね。しかしおじさんはそういうお節介なところがやや目立つタイプで、たとえば一緒に電車などに乗って少し離れたところで座席が空くと一目散に驀地でその座席の前に陣取り、
「おいジャパニーズピーポー!ここの席が空いたよ!しかもふた席。これはどういうことかというと俺たちに座って羽を休めろと、肩の荷を降ろせと言っていることに違いが無いのだから座ろうまい!座ろうまい!」
と隣の車両まで聞こえてしまいそうなラウドヴォイスで空席をアピールするようなお節介さで、そんなガッツを発揮してまで席に座りたくない私としては少し恥ずい思いもこれはしてしまうのであり、しかしおじさんも善かれと思ってやってくれていることなので無下には出来ないし、そしてたった二駅とはいえそうやっておじさんが必死で、ノン・デリカシーで奪取してくれた座席に座るとやはりちょいと落ち着くというか、なんならもう欠かせないような存在に成り上がれてしまえているため、こうなりゃ一連托生よと漢気一発、じゃがいも二発、駆け付け三発、四ないしは五発ってな感じで私はこの素晴らしき悠久の座席に腰まで沈めてゆっくりとしてしまう私になるし、おじさんはそんなリラクゼーションタイムの私を見て、
「おん?なんじゃらほい?」
という最低のレスポンスを呉れるのでもうこれはありがたいんか迷惑なんか判ぜられないぜ、ってなことでやはりおじさんはお節介であることよなぁと感じ入ることでしか今のところは自分で自分に嘘をつけない、夢叶えていけない、のでやはりおよそ大事なものの全てがある、鎮座(チンザ!)していると噂の山へと入りてもみあげと髭を繋げていこうかなって考えて、廃しておいて。