
最近私は人間といふものの自然界における生命力の弱さ、切なさ、それを例えて植物でもゴリゴリに弱い方に属する葦(あし)のような存在であるよなと心から思う。しかし、ただの葦と違うことには、人間は思考する力を持っているというところで、ならば人間とは"考える葦"であるということを今此処に、声高々に言いたい。言わせていただきたい。
人間は考える葦である。
私が考えたというアピールの為にわざわざもう一度記しておいた。私がこの、人間は考える葦である、と申していたことをどうか忘れずに覚えておいていただいて、もし私が自分で考えたにも関わらず「あで?人間っては考える何だっけ?考える虫?考えるベーコン?考えるボブチャンチン?あで?マジのマジで何だっけ?」と思い出せずにいる際には「間違ってたらすいません。それは考える葦ではないですか?」と私に自らの発言を思い出すヒントを与えて下さると助かる。パスカル。
さてそんな考える葦である我々人間であるがさすが考えてるだけのことはあって、本音と建て前、虚勢とハッタリ、ブラフと二枚舌、その他様々な権謀術数によってこの魑魅魍魎がチミチミと蠢いて浮世を巧妙にサーフしているわけであるが、そうなると見えにくくなってくるのがそう、本当の心、本心、トゥルーハートということになって致しますのである。ただ、トゥルーハートが見える、感じられるからといって、それが決して良い事ばかりではないというのか……?え?
以下に建て前と本音の一例を記してみたのであるが、たとえば括弧内のような本心ぶちまけでトークを経れば社会はどうなるのでしゃう。
「まあ、お人形さんが如き可愛らしきにある。(うわ、馬子にも衣装とはよく言ったものだ)」
「これは美味きのもの。大切なもののこと。(同じ人間で同じ構造の器官この場合は舌を持っている筈であるのに、何故かように不味しものを作り上げられるのだろう。もしや此奴、俺のことをゴミ箱だと勘違いしているのでは?)」
「あなや、アナル、これが謂わゆる迦陵頻伽な歌声というものです。もはやカラオケのレベルを超えてグラミー賞も間近の御様子。(これはアレかな?喉にドブネズミでも詰まっているのかな?だからこんなにも他人を苦しめるヴォイスが出せるのかな?もしも私がこんなヴォイスの持ち主ならば親に殺して欲しい。貴様らが産んだのだから貴様らの手で殺せ、と。)」
どうでしゃう。トゥルーハートを知ったところで良い事は無さそうな気がしてきたのではないでしょうか。私もそう思うである。
まぁだからなんやねやって話で。