
君が日輪に伸べる手を私は信じている。何を信じているかというと、その手がいつか日輪に届くであろうことを信じているんです。
「そんなつもりは無かったけど、ありがとう。」
君は笑ってこう言うのだろうな。或いはその丸き瞳をパッと開かせ、煌めきの無限をつぶさに映してこう言うのだろう。
「そんなつもりは無かったけど、ありがとう。」
そうだろう。若しくは少し照れたような表情で、ハニカミながら少し照れたように、幼き日々の面影を迸らせながらこう言うのだろう。
「そんなつもりは無かったけど、ありがとう。」
そしておっかなびっくりと初めておっかなびっくりに刺身を食した時の大人の階段を一段登った感じ、ワサビの辛味、脂の味、ホーチミンの怒涛、を脳裏に浮かべているような少しくピリついた表情でこう言うのだろう。
「そんなつもりは無かったけど、ありがとう。」
翻ってそこでは決して気を抜かずに、大きな車から小さなオジサンが出てきた時のことを想像して「店長、今日ちょっと風邪引いたみたいで。急で申し訳ないんですけど休ませてもらっていいですか?」なんてことも想像してこう言うのだろう。
「そんなつもりは無かったけど、ありがとう。」
そして私は世に言う、短気は損気、の損気ってなんだろうな。なんなんだろうな。と今どうしても考えなければいけないかと訊かれれば全くそんなことは無いと自信を持って言えるようなことをあえて考えつ、しかし君が下ろす素ぶりも見せずに日輪に向かって伸べ続ける勇壮な手を腕を見つ私はこう言うのだろう。
「そんなつもりで言ってないけど、がんばってください。」
それを聞いた君は私のことを、冷たい反応人間だかと勘違いする日であろうか。そうやって早合点をして、私の吐かした言葉の意図も追求せずに、再び日輪に向き直ってその手を腕を伸べ続けるのであろうか。
側から見れば我等、日輪に向かって手を伸べることの代表選手と、その代表選手に対して的確なアドバイスと時に厳しきに満ちた指導を行うコーチのような関係性にしか見えていないであろう。しかしそれは選手に対する愛ゆえの厳しきであって、いつかこの選手を栄光に導きたいと心の臓から考えているからこその厳しきである感じも見て取れるかもしれない。少し気恥ずかしい気もするが、今の我々には他に主だった特徴も無い為それは仕方のないことであると言える。
しかしそれは(或いは)間違いで、私は君が伸べるその手がいつか日輪に届くであろうことを信じ、期待する一観客に過ぎないのであり、私から君にかけられる言葉といえばせいぜい、がんばれ、届くよ、届いたなら、といった月並みなエールのみであることを肝に命じておいていただきたい。それは誰が誰の肝に命じるのかというと俺がお前の肝に命じるのである。
最後に、今まさに日輪に手を伸べている君と、これから手を伸べる予定のある諸君にゴリラの如きエールとも取れるような熱く猥雑なエールを送ろう。
「何故まで私がかようにこの日輪に手を伸べるという行為を応援エールをするのかと端的に申し上げますると、まずは日輪に手を届けさせようというその蛮勇、火傷を恐れぬ蛮勇に恐れ入っているからで、もし届いたとして、それから何がしたいのか全くわからぬという刹那的なバイブによるもので、ブサイクなカップルほど人前でイチャつくという自然の摂理、殺しのライセンスによるものなんです。
そんな若人の猛き挑戦はこれを目の前にして応援エールをひとつも送らぬドクズが存在してよろしいのでしょうか。答えは空の上です。
だからこそ私はここに万感の思いをもって応援エールを送りたい。嫌われたくない。別に誰も嫌いとは言っていない。貞操観念のハゲ上がってしまってのその他の若人に見せつけて欲しい。君たちの挑戦を。希望の光を。
それというのも、君が伸べしその手は逆光でシルエットになりて、日輪の真ん中に咲いた花のように見えるんだよ。」