
それはまるでざわめきたるの木立が如く大仰なレスポンスを示し、大地に突き立つ巨大な幹の力強さはこれを感じるのに充分な屈強な、もはやクッキャーな体躯でもってそのどんな強風にも耐え得る感じがする感じを言葉少なにしかし多くのメッセージを乗せてご丁寧にもこんな極細の私にも提示してくれていて。
なんのことをこんなにも豊穣かつ瑞々しい輝きの言葉でもってほざいてござるのかと申しあげれば、なんということはない。
それは、アフロことアフロヘアーのことである。
アフロ。
アフロというのはパーティーグッズでも半端ない種類が発売されていることからもわかるとおり、ちょっとした爆笑アイコンとしてその地位を不動のものにしてる感が否めないである。そりゃそうだろう。顔面の面積よりデカいヘアスタイルなんて面白いに決まっているではないか。チョンマゲ?辮髪?バカ言っちゃいけねえ。アフロが一番面白い。
チョンマゲや辮髪も爆笑であるが、あれは人の手が加わっている分多少気の毒であるし、なにしろヒストリアな要素がバックに垣間見えるので諸手を挙げての大いなる爆笑には少しく繋がり辛いのであるが翻ってアフロとなると、そういった髪質であるかぎり放っておいてもアフロになるのでその辺のお手軽感、やめようと思えばいつでもやめられる感、いつでもいったんぞという若き勢い、あの時ああしていればという若さ故の過ち、思い出したくない苦い過去、永遠に在ると信じた甘い夜、その辺のライトな感じが我々の御心にささやかな爆笑を誘い込みて煌めき、そしてなにより憧憬を抱かせるに相応しいアレとなって降り注いでいるのではなかろうか。違うのだろうか。混じりっけ無き改革。そんな墓標でもおっ立ててさ。
それはそうと、そんなアフロが揃ったらそこにはファンクが流れるのであろうな。流れるあろうとも。
ファンクとはつまるところド派手な演奏とド派手な衣装、そしてなにより曲がカッコいいのである。
そんなカッコよさにおいて右にも左にも出るもの無しと言われるファンクに欠かせないのがそう、グルーヴである。
グルーヴとは一言だけ言わせてもらうとバンドの各担当楽器のオジさん、またはオバさんはいくら楽器が上手とはいえやはり得意なビート、慣れ親しんだテンポに各々若干違いがあり、その若干の違いによって生じる僅かなテンポのズレによって生まれるゆらぎ、ヨレ、その他チョイナチョイナ…。そのゆらぎ、ヨレがイカしてる場合にはこれを「これグルーヴ出てる。もうグルーヴ来てる。来る。グルーヴ来てる。」と万感の思いで賞賛しそめし大喜びをするのであるが、逆にそのゆらぎ、ヨレがババ垂れ猫のチンカス花吹雪みたいなどうしようもないイカしてないものであった場合はこれを「これグルーヴ無い。グルーヴ来てない。政治的な思想入ってる。」なんて言ってこき下ろし搾り取り、ジャンクションに放置して帰るといったような惨状になりますのでひとえにグルーヴと言ってもその世界は深遠を極めておるのでありますが、そんな中、そんなイカしたグルーヴをガッタするために一番重要なのがそう、各々が自分の演奏に自信を持つこと。
やはり自分に自信がないと何をどうやってもカッコよく見せることは難しいのであり、逆に少々下手くそであっても自信マンマンで演奏しているとどうだろう。何故だかその自信が今まで経験してきた全てのビート、全てのテンポを深層心理で大解放し、あろうことかその中から至上のファンキネスを引っ張り出して洗い出し、心臓がビートを刻んでいる者であれば乗らなければいられないような極上のグルーヴを奏でることが出来るのである。しかし人間は自分に自信を持つというのがなかなかどうして出来ない出来ないのこと。そんな度し難い自信を持つためにはどうしたらいいか。自信を持つためには自分はカッコいいと思い込むことがお大事であり、たとえばどうだろう。日常生活で「嗚呼、あなや、アナル、今の俺こそカッコいい。」としみじみ思い込める瞬間があるであろうが、もっとも多い答えはそう、美容院から出たとき、だそうで。
昨日までのボサボサのクソダサい自分とオサラバし、すっきりとブランニューな自分にこコニチハ。そういう意味では美容師とは、我々下賤な者どもに「カッコいい」の魔法をかけてくれる魔法使いなのかもしれませんね。ただ、美容師のことを空想すると頭の中が何故か、八つ裂き、という単語で満たされることも事実である。
さて、閑話休題といったところでそんな魔法使いである美容師にどんなヘアスタイルにしてもらえば自分に「我こそはカッコいいの者ぞ。」と自信が持てるのでありましょうか。そのヘアスタイルとはそう、自分に似合ったヘアスタイル、です。
そう、長々と何を言いたいかというと、自分に似合ったヘアスタイルこそが貴方の心のアフロであると私は大上段から申し奉り候です。
アフロだからアフロなのではなく、自分に似合っているからヘアスタイルだからアフロなのである。
たしかにアフロはアイコニックであるのでカタチだけのファンキネスなら醸し易きも事実であるが、それが本物の、精神的にもアフロであるかと聞かれると、そんなこと聞かないで欲しいというのが正直なところである。
要はカタチだけのアフロなどアフロではないということで、そんな者どもが奏でるファンクに極上のグルーヴは舞い降りないのかもしれない、と思う人もいるということである。