
何か悲しみの出来事のあった日や、特にこれといって取り立てて何かがあったわけでもない日、私はあたまをツルンと撫でる。もちろんそれは私のあたまの、そのツルンをツルンってして、キュッてなって、それはまるで遠い昔に触れた玉の思い出のことを思い出せて、とゆーことでなんか懐かしい気持ちが思い出されて異様に落ち着くと言うか、今日という日に何か一つパッと花が咲いたかのような絵も言われぬエモーショナルな感情が喉の奥から突き上げてくるようで、するとあたまツルン、陽気になり申した。かたじけ~。
それはそうと世は、つーか俺は、向かう処の全ては空に芥、絹にボケ。常に気をつけて行動していたいのは山々なのであるが、世間がこうものんべんちゃらりであると俺もつい同調してのんべんちゃらりの体たらくに成り下ガールで、いや、でもそうして世がのんべんちゃらりであるからそれ故に俺も、この愛しい俺ものんべんちゃらりに成り下がっているというのは単なる言い訳に過ぎず本当は心の気持ちで正味の性根がのんべんちゃらりであることをさも世の責任であるかのようにすり替えて、浮世をスケープゴート(意味は知らん)にして俺のアイデンを保っているというのが俺のイケていないマイセルフでありますからここは正直に、世の責任にせずにありのままの迦陵頻伽な私を見てもらうという意味も込めて露しますと私は空に芥、絹にボケ。それも自己責任、みよしの自己矛盾の中にあって万年ポロリの絶えない万年ポロリ野郎で御座います。それを恥じることが日課のルーティンとなりつつあるゴミ人間で御座います。
ゴミ人間はさすがに言われ過ぎかなって本当は感じておりますし、私や俺のような者が手前のことをゴミ人間、ゴミ虫(言ってない)と宣うのはモノホンのゴミ人間、ゴミ虫(言う予定がない)の方々へも失礼にあたるし、だっていくらゴミ人間、ゴミ虫(誰のことだろう)と呼びたおされていようがそういった方々にも私と同じ人権があるらしいっぽいので礼を欠いては罪になるみたい。
例えば脚の骨を折ってしまったとしてお医者でガチガチの包帯ことギプスをガチガチに巻かれたことが私はあるのですが、そんな折(折れたこととかかっている)、普通は、心配してくれる人が多ければ、ギプスのその白きにマジックペン等で
「早く治れ!」
「早くくっ付けてまたサッカーに興じる!」
「折れてないと思った方がいいよ!」
「いや、現に折れてはいる!」
「折れたくなかった?」
といったメッセージを書き込みて折れてしまったことに対するささやかな慰めや治った暁の希望などを示してあげ、なんだ、折れてこんなにも心配をしてくれる人がいると再確認出来たんでそこに関しては折れて良かったと言えますね。不幸中の幸い。と折れたが故に感じられた幸せを噛み締めたりする愚かで情けない風習があるそうなのだが、俺という場合は折れたという事実に真っ向から立ち向かい、人生という荒れた海をひとり漕ぎ行くために誰からのメッセージの書き込みであれどこれを許可せず、この白きギプスは俺のこれからの人生のカンバスだ。真っ白な情熱なんだ。目に見えぬ筆で燃える想いを書き込んでやる!と意気込み、しかも幸いにしてメッセージの書き込みを申し込んでくる偽善者、何ひとつ折れていない偽善者もいなかったので、こら結構やな、と真っ白なギプスは真っ白のままに保つことが出来て良かったし、一度物は試しとマジックペンで足の裏の目立たぬ処に試しに「折れの中ではマシな方」と書き込もうと試しに試してみたがギプスというものは包帯を束ねて固めたものであるため、表面がザリザリしておりマジックペンで書き込むとペン先は削れるは字はギザギザになるわであまり綺麗とは言えぬ出来になることが試してみて分かったので(「折れ」まで書いて中断した)やはりギプスにメッセージを書き込む等しなくて良かった。と思ったし、もし書き込みたいという輩が現れても余程の情熱を見せつけてくれないかぎりは断ろうと思ってたからね。
そんな折れた折ですら折悪くも空に芥、絹にボケ。WE ARE HUMANBIRD。
わたしがは野原の革命所ではないよと世間を謀りながらコソコソと、そしてウロウロと生活を続けていた慎ましやかな俺はあたまをツルンッ。するとどうでしょう。見かけによらずツルンとしたあたまがキュとなりツルンッ。おおよそ今日というかけがえのない日々にパッと花が咲いて「俺は一人じゃない。俺には大切な私がいる。さあ、本日も幾度となく自分と友達になりましょう。」といった極めて朗らかな心の気持ちになりて、押忍、本日の天下泰平も大きな意味ではほぼ俺のおかげです。本当にありがとう。本来の意味でありがとう。と安らかな気持ちでレム睡眠に陥ることが出来るんですよね。
そういった小さな幸せを集めて寄り添って、太めの糸みたいにして生きて。