
人間が最初に使うようになった道具はスティックだという。それは太スティックと呼ばれるもので、主な使用法は小動物をど突いて仕留めたり、果実をど突いて割ったり、昔は今と違ってどこもかしこも謎の植物だらけであったため、その謎の植物を掻き分けるためにワサワサしたりと実に多様な用途で太スティックは使われており、中でもより華麗に、そして時に力強く太スティックをしならせて食糧を捕獲してくる者がめっちゃカッコいいとモテそやされ、酋長の娘(ドブス)とかを許嫁にしてテンションを上げていたとのこと。
俺はそんな中途半端な幸せはいらない。いらないんだ。
太スティックを巧みに使えるからお前はすごい。もはや名のあるおのこや。
お前がその太スティックを拾って来たのではなく太スティックがお前に拾われたんや(?)。
でも一番の太スティックは、お前のその脚の間にぶら下がってるやつかも知れぬな。ザッハ!ザッハ!(全然おもんない)
上記のような感じで褒めそやされモテちぎられ、己が太スティックさばきのしなやかさ、たおやかさ、小動物をど突く時の鬼神が如き気迫、そして仕留めた小動物への慈しみと感謝、その他諸々の太スティックと私の事情をいくら評価されたところで私の心は猫だまし、ちっとも盛り上がらぬ。
私が俺が俺の私のどこをどう評価してくれと求めているのかそれはもうかなり明らかになっている。研究、進んでる。
有り体に申す。私は俺のもっとパーソナルな部分を評価されたいの。パーソナルな部分を評価されたし。
太スティックで小動物をいくら捕獲しただの、太スティックを巧みに使いて果実を山のように持って帰ってくるだの、そのような目に見えるカタチの、数字に出来る系の部分は今はちょっと置いておいていただいて、もっと私のパーソナルな部分、ビジネスではない部分をガッツリと見ていただいて、
「あなや、アナル、太スティックもさることながら此奴、人としてまず中身が素晴らしいやんかいさ。だから逆に言うと太スティックなど持って無くても元が元から素晴らしい人間であるさかいそれだけで褒めそやされモテちぎられて良いハズであるし、ということは太スティックに関してはもはや此奴を形作る一ファクターに過ぎないのであり、だからなんやねん。」
といった具合にパーソナルな部分が主な評価のポイントであって欲しいという想いは、あの頃から一切変わっていない。半袖のワイシャツはクソダサいという感覚もあの頃のままだ。
私は、俺のパーソナルな部分はあの頃のままなんだ。
なら分かった、と。パーソナルな部分での評価を強く求めているこたぁよく分かった、と。
ならば聞くが、貴方は表面的な部分ではなく内面的つまりパーソナルな部分で評価されたとして、本物の自分、丸裸の自分が一体どれほどの高い評価を得られると思っている?
今まで以上に?今まで通りに?それとも、今まで以下の評価になりそうだからやはり太スティックのみの評価で我慢しておく?帰る?
私は正直な話、「中身で評価してほしい。」と相手に対し宣言するのは相当にチャレンジングなことであると思っている。
何故なら私を含め人間というヤツは、中身は皆大体同じくらいしょうもないもので、それを表面的に取り繕うために町は服屋で溢れており、あっちも服屋でこっちも服屋、ブティックだらけの惨状になっているわけであり、もし人間がガチのマジで中身でのみ勝負できるような、そんな素晴らしい人間ばかりであれば毛皮を袈裟に纏っただけでも充分生きていけるハズで、言語というのもこれは表面的なものであるので「バンボ、バンボ。」としか話さなくて良いハズであるし(「ズホッ、ズホッ。」でも良い)、髪の毛なんて伸ばし放題で挙げ句の果てには手に手に人類最古の道具、太スティックを持ってたもればそこにはほら、原始人。生きる歓びは原始人。
ということは結局、原始人はパーソナルな部分で評価されており、その一ファクターとしての太スティックさばきの妙があったのみで、やっぱパーソナルな部分が素晴らであるからこそ酋長の娘(鬼ブス)を許嫁にすることが出来たのかなって今になってはそう思うし、ならば勘違いで太スティックさばきだけで評価されていると思い込んでいた私が全面的にゴリゴリのブスということになり、それに対してしっかりと謝罪をすることが明日の私や俺のパーソナルな部分への評価につながるんだと信じております。
原始人、ごめんね。学が無さそうだからって超バカにしてたや…。