心の気持ち

 

例えば他人のモノを勝手に食べてはいけないという事実があるが、しかし「何故、他人のモノを勝手に食べてはいけないのか。」ということを理路整然と説明せれ、と言われた場合私は的確に、誰もが納得する形で説明しきるることの出来るであろうか。一点の曇りも恥も外聞もなくピンピンコロリの精神で説明しゃっされらるることの出来るるのだろうか。

出来ると思う。

最初こそ若干口ごもることであろうが、興が乗ってくればそこは口車、ゴンチャンゴチャチャのゴンチャのリズムで西へ東へ八面六臂、気がつけばそこは私の独壇場で大上段からノッポのサリーの気分の気持ちで目線で世にもツルっと「他人のモノを勝手に食べてはいけない理由」を説明しゃきれるるであろうかと思ほゆ。思ほ。

 

そうかと思えば彼方のクソガキが「何故、他人を殺してはいけないのでしょう。」などという質問をペニスに毛の一本も生えていない分際で私に訊いてきたとしたら、それに対しても前述の通り爽やかに軽やかに、かまびすしくて恭しく説明しゃがりあがれるるのであろうか。

いける?

我ながら、我思うにコイツに関しちゃあ少々厄介な質問であると感じざるを得ない。話は変わるが、そして別に話が変わって何が悪いのか分からぬが、稀に「~~せざる終えない」と勘違いして覚えているし、してそういった者ほどやたらとこの言い回しを使いたがるのだから全くチンチラポッポが多くて焦るぜな、ってな感じで「何故、他人を殺してはいけないのでしょう。」でしたね。

 

まず、他人をガンガン殺していい、という雰囲気の世の中になった場合、最も困るのは誰か、それは他ならぬ俺、そしてお前ら、つまり今生きている人間が全員困るということになるのである。だって常に誰かに殺される恐怖を抱えて生きているわけだからね。それは困るでしょう。

世の中の人間全員が困る、困っている状態というのは鬱屈として悩ましく、掘削してはレディらしく、そんな感じで何のボーナスも無い寂しく気まずい世の中になり果て腐るのでそれはそれは切ないな、ということで他人を殺すのはNGとされております。

つまり「お前が殺されたくないのならば、お前も誰も殺すな。」ということを皆が皆考え合っていると。そして支え合って生きているというわけでござぁすなあ。

だから、人という字は人と人が、あの人という字は棒二本で出来てるでしょう。だから人という字は人と人が、あの棒二本を人と見立てて、人と人とが支え合って出来ている、というのを私が考えたのであるが、これを広めていきたいなと思って今がんばってます。

 

これを訊かれてはひとたまりもない、と言われて久しいのが「心ってどこにあるの。」という質問である。

質問業界で一番難しいとされているのがこの目には見えないけれど確かにそこにあるもの、それは心、それは気持ち、それは愛、その他ありとあらゆるテレパシー、そういったものに関する質問であるが、これを的確にシマゴンチャのリズムで啜るように説明しゃかきれるる者など果たして存在し続けるのであろうか。

私はそれはズイムなこと("難しい"という意味の若者言葉で、流行っている)かと感じる。

 

何故なら、何故目には見えないものに関しての質問とはズイムなことなのであろうか、とこのズイムと感じている理由も説明できないからで、いや、そりゃあ時間をかけて紐解いていけばこのズイムに関して的確にモイスチャーにババゴンチャのリズムで説明せるることも出来るるかもしれぬが、私は、てゆーかお前らも人生は短いのでそんなズイムに気を取られているくらいならばクラブにいって啜るように踊ったり、ウノゴンチャのリズムで踊りたおしたりして生活した方がいいと思うの。