
簡単に人のことを「お前はこうだ。」と決めつけたり、「お前はこうじゃない。」と決めつけたり、「お前は誰だ。」と決めつけたり、「お前はちょっと分からない。」と決めつけなかったり、そうしてよく知りもしない他人のことを決めつけたり決めつけなかったりするような人というのは、ある程度大人と関わるようになればまあ何処にでも存在することがわかってくるのであるが、そんな決めつけ人間よりも厄介なのがギュンしてくる人間である。
奴らは事あるごとに手前の事は棚に上げ、なんかあればギュン、なにもなくてもギュン、ちょいと小粋にギュン、探し物はギュン、アポをギュン、鉄をギュン、目に映るもの全てにだいたいはギュン、ギュンギュンギュン。
何をそんなに他人にギュンするのか理解に苦しむところであるが仕方ない、奴らはそうやってギュンすることによってなんやかんやで世渡りをしてきたような人間、クソ饅頭の泥ケチャップ。ファイナル没っちゃんのクリストファーチンコなのであるから、そりゃあ処世術としてギュンに頼るようになるよね。
でもだからといってギュンが赦されるなんて思うなよこのボケ。
少し話は変わるが、たとえば童謡「おじいさんの古時計」という曲があるが、この"古時計"という言葉を"FULL時計"と勘違いして覚えてしまったがためにこの世にはFULL時計とHALF時計の二種類の時計があるのや、と子供ながらに納得も得心もいって
「じゃあ僕はこの世の中にある全てのHALF時計同士をくっ付けて全部をFULL時計にしてやんよ。もう誰も悲しまないように…。」
なんて幼い夢に燃えてデイドリーム、時計を見つけては周囲の大人に「ねぇねぇ、あれってFULL時計?」なんて訊ね、しかし大人たちは"ふるどけい"と聞けば"古時計"のことだと理解するわけで、そうなると「うーん?あれは…、どうかな。古いっちゃあ古いけど…、ああいうのは未だ古時計とは言わないんじゃないかな。」てな感じの歯切れの悪い答えしか返せず、すると子供は「またここにもHALF時計が…!この世は思いの外HALF時計で溢れている。いやむしろFULL時計の方が少ないっぽい。そんなHALF時計同士をくっ付けて全てをFULL時計にしていくという僕の夢。もう誰も悲しんで欲しくないからと抱いた、小さな僕の大きな夢。その夢に微かに暗雲の立ち込めるそんな午後、私は海になりました。」てな感じで地球からまた一つ、希望の光が失われていく、なんてことになったら悲しくてやりきれないし場合によっては思い出しては泣いてしまうということになりかねないのでそんな時は空を見上げて全く関係の無いことを考えればいいよ。
それはたとえば餃子のこととか、フィットネスのこと。スケボーのことや餃子のこととか、ホントに何でもいい。
何でもいいから別のことを考えて悲しみから目を逸らそう。
「あ、鳥が横切ったよ。」
「あ、遠くでサイレンの音がしているよ。」
「あ、あの雲は餃子の形に似ているよ。」
悲しみというのはこのようにして時間をかけて自分で噛み砕いていくしかないのである。
人が他人に最も頼りたくなる時、他人に甘えたくなる時、それはおそらく何か悲しい出来事が我が身にふりかかった時であろう。
しかし本当のことを言うと、悲しい、という感情は自分ひとりで、そして時間が経つことでしか如何ともならないものなのである。
いや何とかなるかもしれんけど、悲しみに対し一人で立ち向かい、そして悲しみを一人で処理出来るようになれば、人は強くなれるし、そして自分自身でセルフで悲しみをケア出来るのであれば精神的には筋肉モリモリである。ワールドチャンピオンであると言っていい。
そう。そんな精神的な成長のチャンスである悲しみすらも簡単にギュンしてしまうところが、私がギュンする人間に対して勘弁してくださいよぉ~と思うところなので。そういう感じなので。
居酒屋でギュン、メトロでギュン、立ち読みでギュン、虹をギュン、パンをギュン、カードゲームをギュン、盗んだバイクをギュン、溜まったポイントをギュン、麒麟の翼をギュン、時差をギュン、悲しみをギュン。