
幼い頃、このままダッシュし続ければ段々と両足が地面から離れて空に向かって走っていけるんだよと思える程にダッシュしたことが君にもきっとあるだろう。
あの頃は良かっただなんて、そんな野暮な事を今更口にするワケではないけどさ、やっぱりあの頃の方が俺たちって夢見心地だったんだよな。朝から晩までたっぷり夢の中、白昼夢の無我夢中、我利我利亡者のエンドルフィンでさ、ラリってるとしか言いようがない毎日だったことをまるで昨日のことのように思い出せるよ。
やれ校庭に深い穴を掘ればブラジルに行けるんじゃないかなとか、虹の根っこには宝物が埋まっているなんて言い出して皆んなで雨上がりの町を自転車で走ったりだとか、チーチーパッパを三日間完徹でやり切ったら涅槃に辿り着けるだとか、電車を待つ女子高生にひたすら小石を投げつけるだとか、そうして、大人からすれば何の生産性もない時間であるが、大人には二度と得られることの無き永遠の時間をこの世いっぱい泳いでいたものだ。
もちろん、何の損得も求めないままに。
だからといって大人になったからには夢想家じみた夢を見られないのかと言えばそんなことは無く、大人は大人で十分に存分にデイドリームを観る、観続けることができると思うし、たとえばそう、結婚なんてまさにその通りではありませんか?というのは結婚というのは実際はどうであれ一応永遠の愛を誓う契りでありまして、昨今の貞操観念の禿げ上がった性欲の豚どもからすれば噴飯ものかも知れぬが、本来はそういったガチガチのガチの愛の契約であって、この世で唯一の形に見える、そして公に認められる愛の形なのかも知れないなっつって、みんな盛り上がって軒並み婚活をしているということにいい加減に気付いて欲しくて、つまり何が言いたいかというと、分別が付いた分、大人の方が永遠を意識するのでは、ダッシュし続けたらいつか太陽に向かって上昇していくということを意識するのでは、と考えていて、だとするとやはり心はあの頃のまま、いやむしろ、知恵、知識が付いた分あの頃よりもよほど現実的にその方法を模索して夢が現実となるよう絶え間ない努力はこれを惜しまず………(以下、三千年の孤独と共に推の続く)。
小粒になってはいけないんだ。いつでも大粒、心は錦。どーんと構えて自信マンマンのシャカリキ梵天ナイトクルーズで戦国時代、そして俺は頂の光を見た。
それは空に芥、絹にボケ。世の全てを穿つ真実の駄洒落であった。
「あなや、アナル、あれに見えるは、おい、見遣れ。見ろって。あれに見えるは大量のタイ料理("たいりょう"の"たいりょう"り)(かなり高度な駄洒落のこと)(世界が広がってゆく)(僕らはここから動ける)(WE ARE HUMANBIRD.)。」
空に芥、絹にボケ。
空に芥、絹にボケ。
空に芥、絹にボケ。