ケツの光

 

満月の夜、月光に反応して狼男が盛り上がりだすということはもう完全に誰もが知っている事実でありますから、それを今更取り立てて「満月の夜、月光に反応して狼男が盛り上がりを見せることを知れ。」などと市井の人間に説明したところで、は?それが?と訳知り顔のしたり顔、いずれにせよどつき回したくなるような表情を添えましたリアクションしか返ってこないことは明らかで、それが解っていてわざわざイライラしにいく必要はこれ全く無く、なんなら、こんな未来であるなら、初めから交わる事なくすれ違っていた方がマシであったかのような、出会わなければこんなに苦しむこともなかったのに、といったような軽度の錯乱状態に陥りて、思い出せば泣けるような思い出のフラッシュバックとともに忘却の彼方へ唾棄してしまえればどれだけ楽だろう、なんて何度考えたことだろう。五度は考えてるよ。六度いってる。

 

そんな切なさに打ちのめされた時には、ケツの光を浴びていたいのさ。

月の光が太陽の光を反射したものであるように、ケツの光ももちろん太陽の光を反射したものであるのだけれども、ならば何故ケツの光にはあのような癒しの効果が認められているのであろうか。おかしいやないか、普通に考えて。

 

まずケツの光が何故癒しの効果があるかって?それはやはりケツ自体が相当に柔らかな物質であり、そこへ反射した光ならばこれは一度その柔らかなケツに受け入れ、受け止められ、そして反射されるが故に柔らかな光に変化されて反射されるのではないかって?それが答えなんじゃないかって?

その通りだ。寸分違わぬその通り具合かと思う。隙が全く無い推論であるかと思う。そういった実際的な、この、話し合う価値のある回答をしてくれるのが此方としても一番喜ばしいし、笑えてくるし、なんなら生きてて良かったな、みたいな、世界が自分の味方になったかのような勘違いすら今夜は許してもらえそうだよね。

 

つまり上記の通り一度ケツに受け止められ、受け入れられた後に反射した光には癒しの効果があることが科学的にもオカルト的にもガッツリ証明されたという事の顛末になるワケでありまして、ならば次に気になるのがそのケツの光の癒し効果の具体的な癒し効果とは何ぞや?ということですよね。

でも考えてみれば人様に何か教えを請おうかという段において「何ぞや?」という物の言い方はあまりにも居丈高であるように思う。

そういった小さなイライラが溜まっていって現代人は常にイライラ、あっちでイライラこっちでイライラ、して最終的に爆発して暴発して全然関係無い篠谷さんとかに迷惑をかけることになるワケなんですわ。これが最悪の悪循環なんですわ。

そういった慢性的イライラさん達におススメしたいのがそう、「ケツの光」ね。

 

ケツの光を日常的に、もうええわ!ってくらいに浴びたおしてだから癒されて、そうすればきっと慢性的イライラも消え去って次の朝、鏡であなた、顔を見てみてください?

あなたはきっとこう思う筈。

 

「俺の人生は常に手探りであった。その日暮らしの風来坊を気取るつもりは無いが、明日がどっちか分からなくて、それでむしゃくしゃして風に吹かれて怒りのピクニックに精を出す日々だった。そこがちょっとカッコいいな、とかは若干思っていた。

そんな或る日、ハイキングに行ったお山の頂上で俺は光を見た。そう、ケツの光を。

その光は目映く輝いて、しかし目に痛い感じではなく、柔らかなケツを想像するに易い柔和且つホッコリとした暖かさを伴った光で、俺はなんだかとても癒され、日頃であれば考えられない優しい気持ちの気持ちとなりて、そして普段のこの自暴自棄な、隙あらば歩こう会にばかり参加している自分を悔い改めたい、というよりケツの光を浴びた時点でもう悔い改まっていたようにすら今考えれば思う。

なんか、そう。そんな感じ。」

 

あなたはきっとこう思う筈。上記のようなことを思う筈。知らんけど。

 

なので騙されたと思って一度ケツの光を浴びに行ってほしい。私なんかはケツの光シンパです故、地球上の全人類がケツの光を浴びれば戦争なんて一発で全部無くなると信じているし、なんなら地球上の全生物がケツの光を浴びれば食物連鎖も無くなると信じている。ケツの光による光合成だけで八百万の命がヨユーでなんとかなると信じている。それは言い過ぎかもしれないけれど、こうして何かを過剰に信じる勇気をくれたのも、ケツの光だったんだ。