溺レる

 

私はぐちゃぐちゃの肉の塊で、色は脂ぎってギラついたグレーで、だから遠目から見るとまるでバイクのエンジンみたいで、本当ならば死んだ方がいいのではあるけどそれを為さないのは私に根性がないのと「まだ死なぬ」という強き意志のあるがゆえで、なぜ死にたくないのかと聞かれれば、それは死ぬのが怖いからとしか答えられぬ月並みでチンケでチン毛、つまり陰毛がごとき存在であるということをお前にはまず理解っておいていただいて、そのお前というのも一体誰のことを指しているのか俺には理解らぬし、俺に理解らぬということは他の誰にも理解らぬわけで、そんなことなら一人でウジそしてウジウジと悩んでおけば済む話なのであるけれどもそれが出来ぬのは何故ならこれが自分一人では解決出来ぬ問題であるが故で、ちなみにその問題とは聞く人が聞けば、というか誰が聞いてもおよそ甘い問題であって、その甘いというのは甘美なという意味なのであるけれどもそんな甘美なトラブルが俺にふりかかっていること自体が「あぁ、今まで生きてきて今がごっついマッシヴ。」と己の来し方について若干のお祝いムードこそ漂え、それを手放しで喜ぶことが出来ぬのは、それが一般的には非常線をギリギリのところを逆さに跨いだ紛争地帯がごとく油断出来ぬ状況であるが故にて、このままいけば私は確実に溺れてしまうこととなりそれが良いか悪いか、まあ基本的には悪いのであろうけどそれを決して止められぬのは何故なら俺が人間という業の肉団子としてこの世にポッポと生を授かったことにそもそもの理由があり、これがもし獣であれば生存の為の合理的な判断としてこのような些細な甘美な問題は「より生きれる方へ。」とイチニノサンで回避できるのであろうが私は人間である故に悩み苦しむのであり、側から見れば俺はおよそどうしようもない人間であることは明らかであるが、だからといってそれで何かを諦めるのならばそもそも私がこの世に人間として、全生物の頂点に立つ生物として生を授かった理由すらもはや説明がつかないというか意味を成さないというか、簡単に言うので重みは少し無くなりつあるがやはり人生は一度なのであってそれは様々な失敗においても一度、栄光の瞬間においても一度、ただの一度が繰り返されるのであればそれを最も後悔の少けない(少ない、の関西弁)方法を取るのが人間としていやもはやひとつの生命体としてまともであるのではないかというのが最近の私の主なアレの考え方であり、溺レるならば溺レるでもう溺レきってしまって窒息でも何でもしてもうたろうかボケカスと嘯いて、しかしそこに偽りは一切なく、俺は溺レるものなら溺レてしまおうかなと、これは気合いにも似た感情がフッサと沸き起こっているのであり、たとえ間違いの中を進んでいたとしてももう既に後悔はするだけしたと、こんなに溺レるとは思わなんだな、となっておりまして、それでもそんなに私が俺を気に入らないならもう殺してくれてもいいよ。

殺して。

いややっぱ殺さないで。

 

言葉のあやでした(^^)