どっこい梅干し

 

それならば、「どっこい梅干し」なんてどうだろう。どことなく郷里のことを思い出し、どことなく垢抜けなき素朴な雰囲気を漂わせ、そしてどことなく郷里のことを思い出せるような、そんな響きが宿っているとは思えないだろうな。俺は思えるけど。

俺がそう思えるということは、誰もがそう思えて然るべしきであると私は考える。それは僕が未だ何も知らなかった頃の昔であっても、こうしてはっきりと言語化は出来ていないにせよ、感覚としてそう捉えていたことは間違いなく、それがたとえ間違った認識であるとしても、やがてしじまは私を包み込むのであろう。

 

梅干しなんて甕ごと送ってこられてもとてもじゃねえが食い切れない。過激な仕送りである。

それを何度母に告げようと、母は「梅干しは万物にアレする。良くなる。」という持論をもとに、今夜もせっせと梅の実を梅干しにする。

せめて梅酒にしてくれれば、とは思うものの、元来酒の飲めない系の家系であり、私のみが突然変異でウワバミが如く酒を喰らう質である為、酒がどんなけ欲しいかということもなかなか理解してもらえることではないし、慣れない酒を相手にまごついている母の、郷里の母の姿も容易に想像できるゆえに、なかなか素直な胸の内を発揮出来ずにいる私であるのだ。

 

♪どっこい梅干し  藪の中

やめとけ  やめとけ  シーサイド

田畑の真中に広がったあ  広がった

お前の旗をズタズタにしてやるよ

 

♪どっこい梅干し  霧の中

暗いぜ  暗いぜ  ニュータウン

お池のほとりに広がったあ  広がった

子々孫々まで覚悟しとけや

 

私が私のために私でつくった「どっこい梅干し唱歌」を母は気に入ってくれるのであろうか。無論気に入られなくとも仕方は無いというのは、この「どっこい梅干し唱歌」は私が私のために私でつくった歌であるゆえ、誰に気に入られなくともちくとも構わぬし、それが証拠はマジで何をどうとせんども私はこのように「どっこい梅干し唱歌」をひとり歌いてニヤニヤとしているのであり、向かいに座る肘に包帯を巻いた奇妙な男性も偉そうに此方を眺めては怪訝とはこのこと、といった表情で私を見たり見なかったり、それで一端の大人のつもりとはてめぇ、その大人とやらは随分と簡単になれるものらしいな!

 

なのでブチ切れて俺は俺のこの「どっこい梅干し唱歌」を挙げ句の果てにはソロゲリラソロライブまで昇華せしめんとさらにアンプのヴォリュームを上げて(もちろん、心のね)みればほら、ほらほら、響き渡ってるや~ん?良いバイブス出してるや~ん?これはもしかしたらアレですね、みんなでひとつに成れるやつかもわかりませんね!みんなで拳をあげつつこぶしを効かせて、まるでだし醤油のような、濃縮還元のような鋭くて硬くて、有限な時間のなかで精一杯ファッショナブルにやらせてもらってます。

なので結果ブチ切れたことも今となっては可愛い思い出なのかな、と思えるし、そうして心に余裕を持てていること自体が成長であるとも言える。

 

総員ほどよく梅干しであれ。それが全てなのだから。