俺はブーメランや

 

心にひとつ、絶対に貫き通すと決めているやつを持っておく。

自分が自分のみの強烈な意志によって徹頭徹尾一切ブレずに貫き通すやつ。馬鹿にするならばさせておけばよい。しかし貫き通すやつを貫き通そうとしている俺を邪魔することはならぬ。もし邪魔をしようと近づくならば何人たりともやむなし、斬る。(ズバッ!)

 

いや、正確には斬るということは出来ない。形状的にはなんとなく刃物っぽさを出せてると思うけど斬ることはできない。斬れはしないが戻ってくる。

なので、もし邪魔をしようと近づくならば何人たりともやむなし、戻ってくる。(しゅんしゅら)

なぜなら俺はそう、ブーメランなのだから。

 

いきなり、俺はブーメラン、だなんて春先の狂人伝説みたいなことを口走ってしまったことに関しては謝罪をしよう。

おともだち、ごめんなさい。

しかし、事実俺はブーメランなのである。

いや、俺はブーメランではない。読み書きそろばん何でもござれの大切な人間である。しかしながら俺は心にひとつ、貫き通すと決めているやつとして「俺はブーメランのようになりたい。のように、ってゆうかブーメランそのものになりたい。なる。夢、叶えていけるわ。儚き少女の白昼夢。そう、俺はブーメラン。」というやつを掲げてもう四、五年になるんかな。そんな感じで俺は俺のことをブーメランだと思って、思い込んで生きているというワケである。

 

とはいえナリは人類であるし、ブーメランとは似ても似つかぬ(寝る時は手足を伸ばしつ身体をくの字に曲げなるべくブーメランのシェイプを保っているとはいえ)青春時代であるし、ブーメランと違って自分で歩けるし、喋れるし、なんならブーメランを投げる側であるし、つまるところブーメランに負けているところが全く無い、ブーメランに対しては負ける要素が無い完全無欠のキチガイであるが、そんなこの世の宝のような私が何故かくもブーメランに憧れて、あまつさえ「なりてえ」と感じているのか。

それを紐解くにはアボリジニが熨していた時代まで遡らなければいけない、などということは全く無く、答えはザッツ・シンプル。

 

「投げても戻ってくるから。」

 

覆水盆に返らず、とは良く言ったもので覆水は盆に帰らないよという至極真っ当なチンカスみたいな諺なのであるが、この諺からも分かる通り基本的にこの浮世は不可逆の中にケイオスとして存在しているのであり、やったことには取り返しがつかないのが当たり前でなんせ摂理なワケであるが、しかしブーメランはどうだろう。投げても戻ってくるではないか。

通常、一度投げたモノは壁に当たるとか剛の者に投げ返してもらうとか、そういった何か別の力の働きによってしか再び手元に戻ってくることは無いのであるが、ブーメランに関しては投げても何かのダウンフォースやら揚力やらニューエナジーやら航空力学やら、そういったエアー的な空気の流れ的なアレを計算して作られたシェイプになってまして、なんと投げてもまるでそれが当たり前であるかのように戻ってくるのである。

 

いつ誰がどういう発想で投げても戻ってくるブーメランというモノを作ろうよ!と言い出したのかは調べれば出ると思うので調べて欲しいのですけど、それを実際に作り上げた努力、研究、三三振、ホスピタリティには眼を見張るものがあり思わず「めっ!」と声が出てしまう日々で、なんだか気恥ずかしくなる午後で、その気合いの甲斐あってね、現在でもブーメランはホビーとして半端なことではない人気を維持していることであるし、なんならブーメランパンツなどというブーメラン無しには決して生まれなかったであろうパンツも発売されていて、すごいな、って思うし、何よりも「元には戻らない。もうあの頃には戻れない。」というこの世の不可逆性に対して真っ向から反発して「投げても戻ってくる。」物を作り上げたのが凄まじいじゃあないではないか。違う?

 

 

だから俺はブーメランというよりはブーメランを作り上げた人になる、ということを心にひとつ、必ず貫き通すやつとして生きていった方がいいのかな。