与えし者の詩

 

「お前は人に何かを与えられるようなお前になりなさいお前は。お前誰やねん。」

そうして与える心を教え込まれた心で幼き頃より育って成長して参りましたこの私で、その与えの炎は今もなおあの頃と変わらずに募金はするは献血はするはラーメンを食べるのさといや増してメラメラと燃え上がりてだいぶ盛り上がってきてる感じがする私で、そんな私の様子を見て私を与えし者に育て上げてくれた全ての人たちは「あの子が現世で積み上げた功徳はマジエグい。バリヤバい。めっちゃキてる。奇天烈。育てた甲斐しかない。」と軒並み手放しで喜び勇んでくだすっており、私はそれが嬉しくて、嗚呼、見返りを求めずに多種多様なモノを人に与えてきた私で、本当に見返りは求めていないんですけどこうやって現在の、凄まじい与えし者である私をこのように誉めてくださる、誉めてくだされるということが私にとっての最も大きな、そして喜ばしい見返りとなって返ってきてるのかもしれない。絶対そうだ。と考えるようになりました。

私はこれからも与えし者として愚直に真っ直ぐに、そりゃ時には躓くことだってあるだらうけどそこは持ち前のハイテンションでねじ伏せて悠々自適に暮らしていければ良いな。なんて思ったりして。

 

たとえば電車の中でテイクアウトした牛丼(大盛り)をガスガス食べている人を見かけたとして、貴方はどう思うでしょう。

「家で食えや。」

「ニオイが服に付く。」

「てゆーか店で食えや高橋。」

だいたいそんな雰囲気のことを思うのではないでしょうか。つまり文句が浮かぶばかりでこの電車の中で牛丼をガスガス食べているアホに対してよもや何かを与えようなんて考えないのではないでしょうか。

私は違いますね。

私は違いまして、常に持ち歩いて行こうと決めているバッグ、"ギヴ・バッグ"の中を確認して牛丼に適した調味料をいくつかピッカップします。それは七味、それは一味、それは柚子胡椒、中には「最終激辛宣言宍戸ウルフ」という激辛マニア向けのソースなんかもピッカップしたりして(笑)、スタンダードな物から少しかまし気味の物まで、様々な選択肢をまず"与え"、そしてそれを選び実際に随意に調味してもらい食いてもらいその味の変容、ワンランク上の牛丼になったという喜びを"与え"、最終的には電車で牛丼を食って良かったという至上の満足感を"与え"るという結果をモタラスというマネージメントですわ。

 

 

実際に電車の中で牛丼とは言わずお菓子だったりオニギリだったりを食べている方にギヴ・バッグの中からピッカップした塩、胡椒、最終激辛宣言宍戸ウルフ等を「これ、良かったらかけてみて下さいね。美味しさのランクがワンランク上がるやもしれませんよ。」といった具合におススメしてみたことも幾度となくありますが、やはり私の与えし者の容赦のない善意に対して世人は若干引くというか騙されてんちゃうかな、みたいなことを思うようで、基本的にガン無視、場合によっては「けいさちゅ呼ぶぞこのジジイ!」と絡まれたりとなかなか骨のある対応を散らかしてくる輩みたいな奴もおり、もしかしたらこれは"与え"に対して素直に受け止める心をまずは与えるという環境作り、意識作りをしていった方が良いのかなって、それが先決かなって最近は考えるようになってきてて、いやはや、やることは沢山ですが、がんばるで!(笑)