
泣く子も黙るファッションの都として名高いフランス・パリ。そのファッションセンスの高さには尋常ならざるものがあり、たとえばシャルル・ド・ゴール空港なんかに降り立てばそれは一目瞭然ではあるが入国ゲートを出た瞬間、そこにはピンク、フリル、ボーダー、ピンク、ドット、フリル、キャスケット、キュロット、フリル、フリル、ピンク、と完全にイメージだけで言っているがそんな光景が広がっており、「ピンク、フリルを纏わぬ者は死ね。死ねばいい。」という今考えた諺もありそうで無いだけあってしかもその苛烈なファッション信仰は時に「フリルをピンクで挟む派」vs「ピンクをフリルで挟む派」の長きに渡る抗争、所謂「パリのピンクとフリルのガチの言い合い」を生み、その抗争の傷痕が現在もパリに暗い影を落としているかというとそうでもなく、パリの街の人々は至って健康的にピンク、フリルをその身に纏いて飯を食いたりハゲたりと一生懸命に生きているという風に聞いている。
しかし、それだけファッションセンスが洗礼されたおしているパリにあって全くピンク、フリルを身に纏わずに生活を送っている跳ねっ返り、レジスタンスも中にはいるのであって、そういった者は往々にしてブスのクセにスッピンか、森に住んでいるか、森に住むスッピンのブスか、いずれにせよ浮世離れも甚だしい我が道を征くタイプに多く、しかしパリはクソみたいに個性を大事にする街であるので「我々パリジャンの象徴であるピンク、フリルを身に纏っていないとはいえ、パリジャンはパリジャンとして平等に迎え入れる必要がある。パリに住む限り、我々はいつもひとつのパリジャンであるはずだ。」と日和ったことを吐かすばかりでピンク、フリルを身に纏わぬ者達についても特にこれを咎めることなく受け入れるというクソ采配で急場を凌ぐばかりなり。
そもそも何故パリにここまでピンク、フリルの波が寄せては返しているのかというと、今を遡ることだいぶ前、ここパリの地で「このパリをピンク、フリルの街にし隊」という市民団体が突如として武装蜂起しパリジャンのファッションの徹底的弾圧に成功したからで、これは自分達のことを「~し隊」とかばん語でネーミングしてしまうような有り得ないセンスの持ち主の集団による最初で最後の成功例とされており、以降パリでは「~し隊」という市民団体(「人の金で生活し隊」や「時には野外でおしっこし隊」、「フランスパンで顔面どつき隊」等)が溢れかえるることとなったが、よく考えればやっぱり「~し隊」ってクソダサいな、ということで現在では「~し隊」というネーミングを採用している市民団体は存在しない。ただのひとつも存在しない。なぜならクソみたいなセンスだから。
何故パリにだけこんなにもピンク、フリルの文化が根付いたのか。いくらなんでも根付き過ぎではないのか。逆にピンク、フリルでは無かった時代のパリジャンは何をしていたのか、何を考えてのうのうと生きていたのか。それだけが私は気になって仕方なくて調べてみて、昔のパリの様子に明るき文献等をかなり偏った視点から紐解いて私は。
昔のパリにはフリルみたいなオシャレーなもんはひとつもなく、ヲリルと呼ばれる煮染めたような色のガビガビのキショい布をオシャレである、パリジャンの誇りであると思い込んで好んで着込んでおり、「服のどこにもヲリルを施していない服を着るならば、もはや裸である方が誇りが高い。と思うんやけどどうかな。」という格言もあるほどで、当時のパリジャンはガビガビでところによってはヤスリが如くザラザラしているヲリル地の服をそれがまるで当然のことようにシャナと着ており、お肌には擦り傷が絶えなかったと聞いています。
そんな痛みを伴う流行であるヲリルを取り入れたファッションがパリを席巻していた頃、イギリスでは「ケツアゴでない者はあらゆる食物を咀嚼する権利なし。」という格言が生まれるほどにケツアゴが巷を席巻していたとかいないとか、それはまた別の話をだとか。
そしてピンク、フリル。