
最高を"最幸"と書くだの、頑張るを''顔晴る''と書くだの、時間を''時感''と書くだの、なるほど、アホが一生懸命考えたんだね。無いセンスを振り絞って振り絞って、思いついた瞬間には歓びで、明日誰かに言おう、早よ明日になあれと言わんばかりにエキサイトして、まったく人を騙すのも楽じゃねえよな。といった当て字、捩りの類は若者の夢の種を食い物にするネットワークビジネス業界では欠かすことのできない重要キーワードで、キーパーソンで此方としても非常に微笑ましいかぎりなのですが、そんな当て字、捩りの類の最高峰、最幸峰といえばやはりこれは「見栄晴」なのではないかと言われておりまして、え?見栄晴?なにそれ。全然おもんない。とお気づきの方に見栄晴について簡単に説明しておきますと、見栄晴というのは人間のおじさんで、僕が小学生くらいの頃からおじさんの、なんか昭和っぽい雰囲気のおじさんなのです。
そんな昭和の残滓こと見栄晴に対抗すべく、僕はこの度字名を「意地晴」としてこの混沌の世に逆水平チョップをかまして、時々ケンカして笑いあって、楽勝で過ごしていくことにしました。決めました。
でも見栄晴だってに頑張って生きてるのだから、そんな2秒で考えた、意地晴、みたいな適当な字名でこの混沌とした世に逆水平チョップをかます、みたいなことがあって良いのだろうか。許されるのだろうか、見栄晴に。許されないのだろうか、見栄晴に。
結論から申し上げ奉りますと、許されます。
いや、正確には許す許さない以前に「勝てば官軍」という言葉にもある通り勝った者が正義なのです。正しい者が勝つのではなく、勝つ者が正しい、と言えば少しは理解していただけるのではないでしょんか。無理でしょんか。
もっと言うと、負けを認めないかぎり(可能性として)正しい、ということも言える感じがします。バイブスきてます。
だって世には邪神と呼ばれる神々がたくさん存在するでしょう。あれは傍目から見ればどう考えても負けているにも関わらず、本人的には未だそれを認めないが故に持ち前のガッツでガンガンいった結果、邪ではあれど神として衆生に認められているじゃんすか。だから僕が意地晴と名乗って衆生から「いや、お前みたいなもんが何を見栄晴のパクりみたいな字名で世に逆水平チョップを打ち込んどんねや。調子乗んのもたいがいにせえよこの蛸ちゃん。」と言われ続けたとしても、僕が意地晴として意地を張って「いいえ、僕こそがオリジナル◯◯晴です。見栄晴など所詮は僕の二番煎じ、昭和の残滓なんですわ。そこは意地張らせてもらいますわ。」と意地を張って言い続ければいつしか僕は"負けを負けと認めない情けない者"として衆生から認められ、それはまるで邪神のような存在感によって意地晴として世に逆水平チョップを打ち込み続けられるではないですか。
しかも邪神という響きはとてもカッコいいですし、つーかどちらかというと正神よりも邪神を目指してやってきてる部分も少なからずあったわけで、これは願ったり叶ったり迷ったり日和ったり、全体的には存外ナイスな方向に転がっている気がしてならないのです。
そしてこれは別に意地晴として意地を張って言っているのではありませんが、たとえこの意地晴という字名がダダ滑りであったとしても僕は「いや、別に笑ってもらおうと思って意地晴を名乗っているわけではない。」ということで押し通そうかな、なんて思っていて、だって本当に笑って欲しくて意地晴と名乗るわけではないし、そして笑わないということはこの意地晴という字名のセンスの妙を理解出来ていない可哀想な哀れな者である故そのような愚かしい者から苛烈なる批判を受けたところで此方は痛くも痒くもないしご飯もちゃんと食べてるしめっちゃ美味しかったしでもそういったセンス無き輩、不逞の輩は往々にして自分が理解出来ないセンス、ハイブロウな事に対して「おもんない」の一言で済ませ手前のセンスの無さ、知識教養の無さは棚に上げて河原でバーベなどをして楽しんでいたりするんですけれども、そういう奴はたいがいの場合集団で行動しておりまして情けなくも群れになっておりますので見分けはつきやすいのですけれども。
いやこれ別に意地張ってるわけじゃないですよ。
意地晴