
「〽︎フランチェスカの鮫マージン。小池にハマって未亡人。」
シャンソンの哀しみが我が身からジャバジャバと湧き出でていることに気づくのに、そう時間はかからなかった。何故ならめちゃめちゃな量の哀しみが脳の皺と皺の間からジャバジャバと湧き出でていたから。「っっ!!きてる…!」と思った時には私は既に哀しみに濡れそぼった哀しみの肉団子。甘酢をかけて召し上がれ。きっとマズいから。苦いから。でもその苦味を乗り越えた先にはきっと幸せが、僥倖が待っている。
逆境でしか人は強くなれないのかしら。それは筋肉を鍛えることと同じで、一回過剰な負荷を掛けて筋繊維をプンマと引きちぎり、それを修復するため、そして今後は同じ負荷ではちぎれないようにより太く、より頑丈な筋繊維が作られ、その結果だんだんと豪腕に近づいていくような。
そう、だから私は今、かの逆境を乗り越えて観念的豪腕に一歩近づいた。観念的に太く逞しくなってゆく私を、あの頃の、細腕の私が見たら何を思うだらう。「つよなったな。ふとなったな。」と尊重し尊じて呉れ得るのであろうか。それとも、「あんたそれなんやのさ。なんでそんな観念的豪腕になってんのやさ。どやさ。」と呆れたような、冷笑嘲笑に似たペー笑を浮かべるであろうか。どちらにしてもあの頃の私は現在の私からすれば過去の私で、すなわち観念的豪腕になる以前のフランチェスカなので、そんな者が私に物申せることなど何一つある筈が無いわけで、そんな筋合いが無いわけで、おととい来がれだし、おっととっと夏だし、その細腕、観念的細腕で私に掛かってくるとはしかしなかなかいい度胸だ。見所がある。さすがにフランチェスカ節の健在だ。
夜明けの私こと観念的豪腕は、あの頃、すべてがうまくいき、すべてが幸せで、すべてに満ち足りていた、このまま時よ止まって呉れ、一生この若いふたりをこのままで居させて呉れ、神様、どうか永遠に、と若さ故の行き過ぎた、しかし真剣な、それでいてそれが決して叶わない夢であると理解し頻繁に湿っぽくなっていた青い季節を思い出させ、少しくフランチェスカな気分になる。友よ今すぐに会いたい。会って私のこんな気分、フランチェスカな気分を皿回し猿回しとか、とにかく何かを回す演芸を披露して紛らせてほしい。紛ら健壱として八面六臂のタム回しを披露してほしい。
でもそれは勝手な考え。無い物ねだりのアイウォンチュー。そしてこうして一人でフランチェスカな気分を噛み砕いて消化することで、また私の観念的豪腕は太く逞しくなってゆくの。それが嬉しくもあり、哀しくもあり。
「〽︎フランチェスカの鮫マージン。小池にハマって未亡人。」
シャンソンの哀しみが、いつか私を、壊れてしまった大切なもののところへ、また連れて行ってくれるのかしら。