勇気

 

千辛万苦を耐え抜いて、艱難辛苦を乗り越えて、三食キッチリ食べて、暮らしに役立つちょっとしたヒントも頂いて、でもお前、ヒントはもうええから答えを呉れよ答えを(笑)。なんでヒントしか呉れへんのよさ!本気で僕の暮らしに役に立つようなことを教えたい、教えていきたい。という気持ちが有るのならなんで答えを呉れへんのよさ!

「おミカンの白いスジみたいなやつを簡単にピリンッと取ることができる、暮らしに役立つちょっとしたヒントとはなんでしょうか?ヒントは、誰の家庭にでもあるあのアレを使います。家にあるやつです。」

だからなんで答えを呉れへんのよさ!

「無様にブクブクと太っているクセに、やたらと大声で話したり、髪の毛をピンクに染めてみたりと奇行が目立つ身の程知らずのクソ・ポジションのことを"豚"と呼んではいけませんが、何故呼んではいけないかの暮らしに役立つちょっとしたヒントとはなんでしょうか?何故、豚を豚と呼んではいけないのでしょうか。正しいことじゃないですか。ほたら信号を信号と呼んだら駄目な雰囲気なんですか?科学的な根拠でもあるのでしょうか。さて何故でしょう?ヒントは、豚に対してかなり失礼だからです。」

いやだから、なんで答えを呉れへんのよさ!答えを呉れるって言うからわざわざ休みの日を割いて来たのに。あかん、待って。笑えてきた。自分のこの今日の感じがめっちゃ笑えてきた。泣けてもきた。泣いたり笑ったり、色んなことがあった。そんな色んなことを乗り越えて、やって来たるは千載一遇、歓びのバンホーテン、マシンガン驚き。何がやって来たかって?

そうだよ、チャンスだよ。

待ちに待ったチャンスがやって来たんだよ。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、ようやくこの俺様にもチャンスで打席が回ってきたんだよ。もちろん実際に野球をやっているというワケではなく、比喩として打席が回ってきた、と表現しただけであるが、どちらにせよこの一球は唯一無二の一球也。もちろん実際に球を握っているワケではなく、比喩として唯一無二の一球、と表現しただけであるが、いずれにせよ親しき仲にも礼儀あり、チャンスの中に悪魔棲み。

 

そう、チャンスの中、悪魔棲んでる。

「チャンス。それは私にとって、少しく怖きもの。来て欲しいけど来て欲しくないもの。おもんないのに声だけデカい先輩のようなもの。何故って、チャンスが巡って来ると、周囲から期待されるから。自分では、もうええかな、と思っていても、チャンスが巡って来てしまうともう少し続けなくてはいけなくなるから。そしてチャンスはものにして当たり前みたいな雰囲気、歓喜の助走をしているような雰囲気、あれが苦手。テレビでサッカーボールを観ていて、PKになると、もういたたまれなくて観ていられない。これ、蹴る人にとって凄きプレッシャーやろなぁ。だって決めて当たり前みたいな雰囲気出てるよ。敵も味方も、決まって当たり前みたいな雰囲気。ほら、めっちゃボール置き直すやん。プレッシャー感じてるやん。可哀想になぁ。とこう思ってしまいますから。」

要するに僕の場合、失敗するのが恥ずかしいからチャンスが怖いわけである。これは別に、まんじゅうこわい、的なアプローチではない。チャンスうこわい、というわけではない。マジで怖がっているのだ。

でもわかっている。怖れていてはその先にある栄光のグローリーをその手に掴むことは出来ない。ガシンマンの憂鬱のみで生涯を終えてしまうこととなる。

 

 

「ピンチはチャンスとはよく言ったもので、ピンチをチャンスに変える暮らしに役立つちょっとしたヒントとはなんでしょう。これを学術用語で"ピンチャン変換"と呼びますが、さて、そのヒントとはなんでしょう。知っていればもう何も怖れることはない。何故ならピンチャン変換が出来るということは、チャンスを逃してピンチを迎えたとしても、またそのピンチをピンチャン変換によってチャンスにすれば良いからで、さて、そのヒントとはなんでしょう。ヒントは、誰の家庭にでもあるもので、それは、誰もが持ち得る感情、気持ちのことです。さて、そのヒントとはなんでしょう。」