「ニシがいい。」

 

あの子の好みは一貫していた。

世にあの子ほど一途な好みを持つ人間はあの子をおいて他には知らないし、居ないし。

 

あの子は何を訊いても、そこにある程度の自由な回答が可能な場合にはこう答えていた。

 

「ニシがいい。」

 

行きたい場所や食べたい物、好きなバンドや好きな方角、何を聞いてもあの子は一言、

 

「ニシがいい。」

 

とだけ答えた。

微かな笑みをたたえながらながらそう答えた。

 

しかしそんなフワッとした回答では此方としても致し方が無い為、ある夏、ある時、ある純喫茶で、不粋は承知であの子に一度訊ねたことがある。

 

「ニシってなあに?」

 

あの子はゆっくりと視線を移し、窓の外で風に揺れるシュロの葉をいつも掛けているマジックミラーレンズの入ったグラサンに映した。その葉の揺れに合わせて、あの子自身もかすかに揺曳しているように見えた。

窓の外に視線をやったまま、あの子は答えた。

 

「コヤのように。」

 

気のせいか、その声色はいつもと違う色、悲しみの色が差していたような。

何か悪いことを訊いてしまったのかもしれぬ。しかし珍回答すぎて何がどうあの子の悲しみに触れたのかは私には分からない。

 

真夏の太陽が中天へ昇り、クーラー機の効いた店内にあっても窓際だと少し暑く感じた。否、あの子の悲しみに触れてしまったかもしれないという自責の念が、私の体温を必要以上に上げたのかもしれない。

 

二の句を継げずにいる私に閑をしたのか、あの子はウエストポーチから一冊の本を取り出した。結構分厚くてデカい本である。デカい。あの子が広げたその本の表紙には、金色の仏像のような像と、円錐形の煌びやかな塔のような建物の写真が載っていた。

本のタイトルにはこうあった。

 

"一ヶ月間まるごと楽しむタイ・バンコク"

 

あの子はタイに興味があるのか。静謐な雰囲気を纏うあの子にしてはえらくアグレッシブな国のチョイスである。灼熱の東南アジア。

タイトルから察するに、結構な長期滞在をするつもりらしい。

マジックミラーレンズの入ったグラサンに反射して、象がサッカーをしている写真が載っているページを読んでいることが分かる。そのページで手を止めてから、暫く凝視するあの子。

私、耐えかねて、声をかけて。

 

「タイにいきたいの?」

 

あの子がどう答えるのかはもう分かっている。というか、その答えを私自身が欲している。

 

しかしこうしてまたあの子に何かを訊くのは、私が、今日も変わらずあの子はあの子だ、と確認したいだけだろう。いつもと同じように

 

「ニシがいい。」

 

とあの子に言って欲しいだけであるということに最近気づいた。

あの子があの子のままでいてくれることを私は何より望んでいるのだ、と。いつまでも、いつも被っている阪神タイガースのキャップが似合うあの子でいてくれ、と。

 

外からの日差しに照らされて頰の産毛がキラキラと輝くあの子が本からゆっくりと顔を上げ、マジックミラーレンズ入りのグラサンが景色を反射する。その真ん中に映る私の顔は、少年の頃の純真を覗かせていた。

 

 

そしてあの子は言うだろう。口角をやや遠慮がちに上げて、口元に白い歯を覗かせて。