我ぞタツマキ王者ぞ

 

自分のことを自分でタツマキ王者と呼称することを赦されたのはこの俺、タツマキ王者だけだ。絶対的王者であるタツマキ王者である俺が俺を自分で自分のことをタツマキ王者と呼ぶのだから、何人たりとも文句はつけられまい。

ただ、ある程度親しくなれば、タツマキ氏、と呼ぶのもコレ一興だろう。絶対的王者は常に孤独である故、タツマキ氏、みたいな感じで親しげに呼びかけてくれることというのは案外㐂ばしきものである。初対面でも年上の人なら、タツマキ氏、と呼びて呉れて良い。絶対的王者は年配の者に対する労わりの心がほとんどの心の心優しき優しき獣である故、大丈夫なんです。

 

そして人は俺をこう呼ぶ、サングラス掛け、と。

なぜ俺が、サングラス掛け、などというちょっとした暮らしのアイテムみたいに呼ばれているのかというと、それはもしかしたらタツマキ王者である俺がよりアイコニックに王者感を醸し出すために雨の朝にも嵐の夜にも絶えずティアドロップ型のサングラスを掛け続けているからなのかもしれない。

王者の風格で高く聳える我が鼻梁の頂きにゴロリンっと鎮座(チンザ!)せしトロンっと溶けたようなグラスのシェイプが小粋なこのティアドロップ型サングラスを俺が絶えず掛け続けて、そして脇目も振らずに眉間に皺を寄せて天下を睥睨せし俺のこの風格がまるで完成された一つの暮らしのアイテムがごときプロダクト感を染み出させて染み渡らせているが故にこの俺のことを、サングラス掛け、と呼ぶのは構わないが、もう少し手心を加えて頂きたいというか、だって相手はこの俺タツマキ王者なのだから、サングラス掛け、という愛称は若干放り投げすぎというか杜撰な扱いを受けている感じが否めへんというか、そんな感じでタツマキ王者の愛称にするには些かええ加減なような気がするのは俺ことタツマキ王者だけであろうか。いや、そんなことないでしょ。

だって街中でいきなり「おーい、サングラス掛け!今日も元気にお前はサングラスが掛かってるものよ!」なんて呼ばれてみればどうだ。有り体に申して恥ずかしさが全身を包むことは火を見るよりも明らかではないか。それを判っていてこの俺を、サングラス掛け、と呼びさらばえるのであればこちらにも考えがある。俺が俺を自分でタツマキ王者と呼称しているその所以を思い知らせてやろうか。

 

まあそれは、思い知らせるのはまたの機会にするとして、君は一人で焼肉屋に入れるだろうか。先に断っておくが俺は入れる。むしろ本気で焼肉を楽しみたい時には一人でしか焼肉屋に行かない。それは俺がタツマキ王者であるからであるし、王者とは常に孤独なものであるし、あと周りのテーブルがどれだけ盛り上がっていようと目の前で焼かれている肉を最高のコンディーションに持っていける並々ならぬ集中力の持ち主であるから一人焼肉に関しては全然平気のへっちゃらであるということである。

 

君はどうだろうか。そんな焼肉屋に一人で入るという蛮勇を、果たしてお持ちであろうか。翻って俺はどうだろうか。俺は入れる。理由は前述のとおりでありて俺は一人で焼肉屋に入れるし、そしてカフェへ入ればあのめちゃめちゃ小さいコーヒーカップのやつ、エクスプレッスみたいな名前のやつも頼める。

普通はあんなに小さいカップを指三本くらいでチョなと摘んでクソ苦いコーヒーを啜るなどという行為は向こう三軒両隣から爆笑されるか、若しくはこの世がもう少し荒んでいれば「お前嘗めてんのか!」とか言われて道行くヤンキーにどつき回されるという苦渋の苦汁であろう。しかし、俺はタツマキ王者で、そんな俺はカップが小さいことに関して微塵の恥じらいも感じていないという。そこが俺が俺を自分でタツマキ王者と呼びしめす自信の根源なのかもしれない。たとえば、カップは小さいけど器はデカい、みたいな小粋なことも「俺、今面白いこと言うてますわ。」みたいな感じを全く出さずに言える。私服中の私服であるにも関わらず総蛍光オレンジのメッシュキャップ?も被れる。

 

俺は俺がそんな人間であることを、王者たる人間であることを、無意識の内に理解していて、それで我ぞタツマキ王者ぞと自信を持って、そして持ち続けて、今に至るのかもしれない。

 

そんな風に自分に自信を持って、それで春になれば種を蒔いて、夏になれば花を咲かせて、秋になればまた新たな種を落とし、冬になれば、サングラス掛け、と呼ばれ親しまれ、しかもそれは君であっても出来ることであるし、もしもそれを阻害する者があれば俺そうタツマキ王者までご一報ください。とりあえずこのタツマキ王者は、君の家に行く。そして俺ことタツマキ王者と接見したことを自慢してみてはいかがだろうか。