
長く厳しい、しかし時に歓びの人間生活を送るうえで、およそやってもやってもキリがないのが自分以外のすべてに対する感謝ではないでしょか。そうでしょか。そうです。
基本的に何事もなく過ごしている私たちにとって、改めて自分以外のすべてに対して感謝をしたくなるような時、灼熱の刻はそうそうございませんし、そしてわざわざそんな七面倒なことをしなくとも何事もなく人間生活はキープオンされていきますから、たしかに感謝を忘れてしまうこともなるほど頷けるのではあります。
しかし本当は何気なく見ているすべてのもの、たとえばマンホールや選挙ポスターに対しても、感謝しておいて損はないというか、むしろするべきだという考えにはなれませんでしょうか。ドアに感謝、道に感謝、初対面のババアに感謝、飲むヨーグルトに感謝、食べるラー油に感謝、避ける打撃に感謝、感謝感謝の感謝っしゃ。眼に映るすべての物に、人に対していちいち感謝するという行為のことを、新説心理学の世界では "みよしのありがとう" と呼んでわめき散らしております。大騒ぎでございます。いきなり "みよしのありがとう" なんて言われても何のことか分かりませんよね。失敬、あ失敬。なので下記にて懇切丁寧な説明をしていこう、がんばっていこう、と今一度、勝って兜の緒を締めよということで、何に勝ったかは分からないですけど、てゆーかそもそも勝っただの負けただの言うこと自体が "みよしのありがとう" からはかなり遠ざかった筋肉莫迦の世界での出来事ですから、私たちは "みよしのありがとう" の心理で、そんな筋肉莫迦に対しても他と同様に感謝し、また今までみたいに笑いあっていけるといいのね。
ということで "みよしのありがとう" とは何ぞやということを懇切そして丁寧に説明さらさせていただきますと、よく町のお寺の門のところにある掲示板なんかに、おそらく住職が書いたであろうありがたいお言葉みたいなやつが掲示してありますでしょう。
たとえば、
「どんなに土砂降りの雨でも 雲の上には青空が広がっている」
「あなたが柱に激突したのではない 柱があなたに激突されたのだ」
「花は誉めてもらおうと思って咲いているんちゃうで」
みたいなやつ。人間が生きていくうえで大事にしないといけないこと、意識しないといけないことや、苦しみから救ってくれるような言葉が書いてあるやつ。みつをみたいなやつ。あの書を拡大解釈したのが "みよしのありがとう" の基本的な考え方なんです。
あのお寺の掲示板の書にある言葉を重く受け止め、そして住職にその書の真意とかを尋ねに行くわけでもなく己の心の中にあるアンプリファイアでゴリゴリに増幅させて自己解決した後にそれを偉そうに他者に対して説いているうちに新説心理学のひとつのジャンルとして成り立ってしまった、そんなポテンヒットな学説というか思想が "みよしのありがとう" なんですね。
しかし、ポテンヒットからの大逆転劇が往々にしてあるように、この "みよしのありがとう" も今となっては新説心理学を語るうえで避けては通れない、もし避けて通った場合は一夜にして新説心理学の世界から追放されるかもしくは、漢字の「塩」という字が含まれる苗字を10秒以内に5つ答えよ、みたいな微妙に難しいクイズを出され、これに答えられなかった場合はどうなるかというとやはり一夜にして新説心理学の世界から追放されることはもちろん、クイズチャレンジに失敗した場合は今後一切優しい大家さんが管理するアパートには入居できないという厳しいペナルティが課されることとなります。嫌ですよね。
そんなある一面においてはシーキビめの "みよしのありがとう" ではありますが、でもみんないいヤツですし、思いやりもあって結束力もあって、ピンチをチャンスに変える力を持ってるヤツらなんです。1を聞いて10知れるタイプなんです。凄いですよね。変な話、人造人間みたいなものなんです。変な話、地獄の犬みたいなもんなんです。
でもだからこそ "みよしのありがとう" によって常に森羅万象に対する感謝の気持ちを忘れずにのうのうと暮らすことが出来ているということなのです。
だいぶん難しい話になりましたが、ギャルだったら「むずこーい。マジむずこーい。」とかほざき出して家に帰っていてもおかしくないくらい難しい話になりましたが、以上の話を理解せしめた時、あなたも立派な "みよしのありがとう" ホルダーと自称することが出来るでしょう。そしてそれはとても価値のあることですし、バイナなことであります。