
一億総ブルパップ時代と言われて久しい現代にあって、この世の極楽の全て、と誉れ高いかのハッピーサービスを享受できる人というのは一体どういった方たちなのでしょう。
一説によると、ハッピーサービスはアメリカで生まれてアメリカで育ったハッピーサービスだと言われています。ということは会話の端々にアメリカナイズされた感じが見られる方がハッピーサービスを享受できるのでしょうか。
いいえ、それは早計というもの。そういう早計なところが貴方をハッピーサービスから遠ざけることになっているという事実を今一度悔やみなさい。そして改めなさい。
ならば「この場合は大は小を兼ねない!兼ねないんだ!」なる奇妙にカスタムされた慣用句を多用するような人、「でもアレらしいよ、もう少し救助が遅れていたら命に別状があるようになってたらしいよ。」みたいな、少しアタマの良い人間であればまず使わないような言い回しを多用するような人であればハッピーサービスを享受することが出来るのでしょうか。
いいえ、それも早計。本稿二度目の早計は私によるものでした。何を隠そうこの私も早計しやすさにおいては定評があり、また私自身もこと早計に関しては一家言あるタイプで、これをまた「俺には一家言ないよ。」なんて言う人もあるかと思われますがそれはまあ良いとして、ジャージにサンダルで出かけることもまあ良いとして、私も絶え間ない早計によって今もこうして生かされていると考えておりますので放っておいて欲しいのですけれども。
さて、ならば、こんなけ様々な事例、様々なタイプの人をあげつらって未だにハッピーサービスを享受できるような人の具体例が挙がらないということは、もしやハッピーサービスを享受できるような人間などこの世に一人として存在しないのではないか、幻の鳥みたいなもんなのではないか、と貴方は疑心に駆られてきているのではないでしょうか。
もしそうだとしたら貴方は相当な爆笑絵人間で、オネスティーテンションの逆立ち鰹節と揶揄されたところでなす術もないでしょう。
だってそうでしょう。存在しない人間の話をして一体何を喜んで感謝の気持ちをラップで表現せねばならぬのでしょう。人間とはそこまで哀しい、哀しみの生き物なのでしょうか。濡れそぼろえた生き物なのでしょうか。私は断固としてそれに反抗したい。誇りを錦の御旗にして、悪辣どもを一刀のもとに切り捨てたい。でも今すぐにというわけではなく、春かな。春が良い。
よく晴れた春の日に私は逆襲の鬼と化し、久しぶりに台湾まぜそばを食べに行くのだ。ニンニクを増していただくのだ。早く春がこないかなぁ。
さて、いよいよ喧々諤々の体を成してまいりましたこのハッピーサービス議論でございますが、私の中ではもうとっくに答えは出ているのです。というのも私は今回、僕らは今回、最高のパフォーマンスを発揮できましたし、僕らなりに満足のいくプレーは出来てたんで結果に関してはそこまで拘泥していないというか、そりゃまあ勝ちたかったですよ応援してくれるファンの為にも。でも今回は僕らの中で確かな収穫があったし、それを次に活かすことこそが、一番のファンサービスになるんじゃないかなって。ハッピーサービスになるんじゃないかなって。
そう、ハッピーサービスを享受できる人とは、ハッピーサービスを提供する側に対してもハッピーサービスが出来る人なんですね。
とかく勘違いしがちですが、サービスとは一方通行的なもので、これを享受する側は基本的には何もしなくて良く、最後に金さえ払えば後は爆裂して宇宙の塵に成り果てようが文句はねぇだろ、と思い込んでいる方が多いのですが、これは超間違いで、クソ人間の考え方で、戦前戦後に見られるような女中の文化、何事も人に施してもらうことこそが権威の象徴、ステイタスだと勘違いも甚だしきあの時代の金だけようけ持ってるタコ助と同じ考え方で、そんなことだから未だに瓶ビールは他人に注いでもらう、また注ぐべき、みたいなどうでもええしょうもない文化が残っているのであって、施されたら施し返す、施されたかったらまず自分が施す、嘗められたら嘗め返す、といったような考え方に切り替えていくべきなのです。一種のハムラビ法典ですわ。
これがハッピーサービスの全てです。
つまり、ハッピーサービスとは、己が他者に対してハッピーを提供したい気持ちの連鎖、連鎖ッサということになるのではないでしょうか。「なるのではないでしょうか。」ってゆーか、なるんですよ。だって私が考えたのですから。そこに関して文句を言われたらもう、これはたまらないですわ。