君とパウダリー

 

まずもってそのパウダー的発想で俺を挑発してくる奴というのが一体何処にいるというのだろう。それは橋の下。それは雲の上。それは連合の中。何処にせよ、俺には到底気づきようの無い場所ばかりではないか。

それをば常に警戒をして生きていけとはまず無理な話で、もしそんなことが出来るとあれば俺はもしかしたら超能力者の家系に生まれた者と考えて相違ない。この世に愛と希望を与えるハッピー家系の生まれであると考えるのが筋というものだろう。

そうとあれば確かに、見えないものを見るような高度なスピリチュアル的テクニックもこれは可能かもしれないし、他にも檻の中に捕らわれた巨大な象を一瞬にしてアフリカの大地に還す、放たれた実弾を手づかみする、時任の排泄物を黄金に変質させる、なんていうことも可能となり得るであろう。

しかし、今現在俺には特にそういった超能力をポンッと見せしめることは出来ぬのであり、だからこうしてパウダー的発想を持った者の出現に対して日々ただただ警戒をするしかなく、そのせいで他に対する警戒が薄れ、飴を呉れるというオッサンに平気でついて行ってあわや組み敷かれそうになったり、下着の代わりにナイロン袋でイチモツをくるんで一日過ごしたり、全然月謝を持っていかずに大吟醸様に怒鳴り散らされたりと散々な毎日を泳いでいるのである。

 

もしや、と思った。

というのは、俺は今こうしてズルズルなライフスタイルを繰り返しているわけであるが、それこそがもしかしたらパウダー的発想の狙いなのかもしれない。それこそが俺に知らぬ間に振りかけられたパウダーなのかもしれない。

だとしたらそのパウダー的発想でもっての挑発というのはこれ相当練られた挑発であり、人を信じることこそ何より尊いと教え込まれて生きてきた俺にとってはもはや避けようのない挑発、かわしようのない挑発と言い切っても過言ではないことであり、「言うとくけど、例えば今僕がもたれ掛かっているこの壁。この壁ですら僕は信用していない。永遠に僕をもたれ掛けさせてくれるなど露ほども思っていない。したがっていきなりこの壁が無くなったとて僕は然程驚かないであろう。一瞬おっとっととなるのみで、次の瞬間には消え去った壁のことなど全く気にもとめず引き続きパンチパーマにしているオバハンの思考回路についてより仔細な考察を述べ続けるであろうよ。これが全てを疑うことの強さであり、そしてまた悲しみである。」といったことを常々言いたおしている時任であればまだしも、俺の場合はもはやなす術なくパウダー的発想の挑発に取り込まれ、怒り狂い、薙ぎ倒して、しかし数的不利であることもあって次第にバッスバスにやられて、そしてゴミ置場に打ち捨てられた後に凍死するという結果になってしまうのであろう。

 

これは悲劇であろうか。

人を信じ人を愛するが故に蹴飛ばされ、騙されてライフをグチャグチャにされ挙句の果てに無念の中で死んでいくというのはこれは果たして悲劇であろうか。

俺には(手前味噌ではあるが)そうは思えない。

もちろん莫迦であるとは思う。しかし人間のこの長く短い一生のなかで、常に寸分違わず人を信じ、また人を愛し続けた果てに無惨かも知れぬが死んでしまうのであれば、人を疑い世を謀って生きるよりもよほど高潔で尊く、ひとつの命がこの世に在った意味としては些少にしろブックマーク的役割を果たせるような気がするのは俺だけであろうか。

勘違いしないでほしいのは、そういった狡猾の者どものおかげで今のこの便利利便な世が構築されているというのは俺も十分に理解しているということで、決してそういった者どもを頭ごなしに否定し続けるわけではないのであるが、そんな狡猾の者どもの中で一握りくらいは俺のように、真実を一路、愛の強さでもって信ずるを一路、この世は光で溢れているということを証明するべく生きる人間が居たとしても良いのではないだろうか。

 

たとえ今際の際に「いや、やはりもう少し浮世を拗ねて生きるべきであった。俺の人生は人を信じ続けることによってかくも無惨なものであった。」と悔恨することになったとしても、それは実に誇り高く、時任のように所詮は子孫を残す、次世代に命を繋ぐだけの悲しき二重螺旋構造よりも、ひとつの命として高潔に果てていくことのほうが俺にとってはより生を受けた意味を感じさせるのは何故であろう。

 

かかってきなさい。パウダー的発想の者ども。

 

俺は逃げも隠れもしない。ただお前らを信じていく。