地蔵コンシャス

 

どう見ても地蔵にしか見えない人が一体何故そんなstyleを選択し現在の生活に至っているのかということについて、有識者の間では未だに意見が真っ三つに分かれているそうで、その真っ三つの意見が真っ一つになった時に真っ四つだった世界は一旦真っ二つになった後真っ一つになると思い込みがちですが、実際にはそんなこと程度では世界は真っ一つにならないのではないかという向きもあり、これが様々なこの世の禍事に繋がっているというのはもう既に皆さんもご存知のところであろうかと思われるんですが、ならばそのどう見ても地蔵にしか見えない人は何のためにそんなstyleなのでしょうか。

 

街ではそんな地蔵にしか見えない人のことを地蔵コンシャスなんて呼んで奉ってんのか馬鹿にしているのか分からない、丁度その狭間みたいなところで揺れ動いていますが、そんな地蔵コンシャスに詳しいお爺さんがこの辺りで幅を利かせてまして、今回そのお爺さんを金にモノを言わせてとっ捕まえることが出来ましたので少し話を聞いてやることにしました。

 

「うん、あれは地蔵やよ。現世に現れた謎の地蔵やよ。とてもええ子やでね。町内のゴミ出しの日とかを忠実に守るタイプの子。家でザリガニとかも育ててたみたいよ。僕も昔ヤドカリを育ててたし、はす向かいの吉田のとこはシャコを育てとったわ。この辺の人間は犬猫より甲殻類を飼育するのが基本やね。まあそれは人の勝手やけど。」

 

地蔵コンシャス、ジゾコン。

ただ、ジゾコンの人もジゾコンの人で、たとえばお土産を貰った時など「お供えものをありがとう。」と言ってみたり、バス停でバスを待っている時に「このまま地面に刺さったら僕もいよいよだな。」と言ってみたり、事あるごとに合掌して微笑んでみたりと、地蔵と見紛われて結構、みたいな態度をとっていることも多く、少しくそれがウザかったりすることもあり極稀に、ハイハイ、地蔵っぽい地蔵っぽい、と邪険に扱ってしまうこともあるが、そういった態度をとるとジゾコンの人は「あら?なにお前。地蔵にそんな態度とっていいと思ってんの?」みたいなちょっとイラッとした感じで睨んだりしてきたりして、それがまたウザかったりして。

 

でもそうやってすれ違いながら人は人と出会い、そして成長していくものだし、うわべだけの付き合いやめて心より底からその人のこと知ろう、四郎、と思えば絶対に分かり合えるから最幸の瞬感めざして仲間と共に成長していこ!

 

みたいなことを言う奴は100%あなたのことを金ヅルとしか見ていないのでもしそういった寝言の類を平然と吐かすどアホに遭遇した際はその一挙一動を仔細に観察し、喋り方のクセや、また此方の発する「お金」という言葉に対する隠してるつもりで全然隠しきれていないビビッドな反応をよく閲した後これをよく覚えておき、家に帰ってからそのモノマネをすることであたかも自分自身も下賤で胡散臭い人間になったような気持ちになり、モノマネをやめた瞬間にまた元の自分に戻ることで、「あぁ、俺は地蔵コンシャスにこそなれなかったが、夢を持った若者を騙くらかして飯の種にするような、人の世の生き血を啜る悪人へと生り下がらずに済んでいるだけマシではないか。多くを求めるのはやめよう。今あるものを愛するんだ。」とやけにスッキリとし、ともすれば悟りに似たようなフィールにいっとき成れるのでこれはけっこうおススメなんですよね。