三人のトリオ

 

前田がこの町を去ってから、なんだか町全体に活気が無くなったというか、活気はあるけど空寂しいというか、空元気というか、空々寂々というか、だからしてやはり、三人いるからトリオやん。ということを口酸っぱく言っていたのがもう去年の春ですから。夏ですから。

 

それから考えたら、僕らも随分と大人になったというか、ずる賢くなった気がして、自己嫌悪に押し潰されんばかりの日々を過ごしているわけなのですが、でもそうやって人は変わっていくのかなってしみじみ思うこともありますから、短絡的な言い方で申すとやってられない、て事になるのですけれど、これが関西弁だと、やってられへん、となるわけですよね。

 

しかしやってられないからと言って人生を途中で停止して、「ちょっとやってられない感じがするので300年後に起こしてください。前田」とか言ってコールドスリープ出来るような技術は今もってなお発明されていないので、だから前田ももうこの町にはいられないってことで、新しい自分を探したいから、とか何とかほざいてどっか行ってもうたことにより、三人いるからトリオやん。という大前提が崩れ去って響き渡って、だったら残された僕らはどうしたらええんですかね(笑)とかヘラヘラしてて、何も面白いことも無いのに薄ら笑いを貼り付けて生活していることの情けなさは。

 

それぞれに足りないものを補い合って僕らは活動してきたんです。

それは運動ができたりできなかったり、機械に強かったり弱かったり、美的センスがあったりなかったり、寒さに弱く暑さに強かったり。

それはジャンケンに似ていた。

三人が三人、グーチョキパーで、グーチョキパーでなに作ろう、なに作ろう、右手はグーで左手はパーで限定タンブラー、限定タンブラー。そして粉末へーーー。未来へ---。

 

三つ巴のこの状態が未来永劫続いていくだなんてまさか僕らも思ってはいなかったよ。

でもあまりにも突発的に終わりはやって来た。

デジタル表示の時計が9から10に切り替わる瞬間を、誰が意識して見ていることだろう。きっと僕らはそれを何気なく見過ごしているのではないか。牧場に着くまでの辛抱を強いられているだけなのではないか。大事な瞬間を見逃しては忘れ去って、そうして生きていがちなのではないか。

 

もう一度、心に火を灯そう。心の横にも火を灯そう。

 

小さな小さな僕らの火で、町を少しだけ明るく出来ればいい。物分かりの良くなってしまった僕らの罪の、その免罪符とは言わないけれども、前田が居ないだけでこんなにも淋しくなってしまう僕らだけれども、ここに止まるという選択肢が、一番無いような気がして。