食べ物くん

 

食道楽と呼ばれる方々がいる。グルメと呼ばれたりもする。

そしてそんな方々の多くが、食べ物を食べている。そんな方々でもなんでもない我々も、食べ物を食べている。

それはなぜか。食べ物を食べなければ、死ぬからである。餓死というやつである。飢えて死ぬ。それは、煉獄の苦しみ。溺れて死ぬ。それも、煉獄の苦しみ。死にたくない。だから食べる。

我々人間は、てゆーか生きとし生けるものそのすべてが、食べ物くんである。

 

飲食店のレビューサイトなんかで、やれシェフが替わってから味が落ちただの、やれ豚の産地を考え直したほうが良いだの、着丼だのと品性下劣な感想を並べ合って悦に入っている奴輩も、我々と同じく食べ物くんである。信じられないかもしれないが、同じ人権を持った仲間なのである。

 

また、「味保証!お口に合わなければ返金いたします!」、「三回食べれば、あなたはもう当店のトリコ…」、「ガンコ親父の店」等の品性下劣な文句をうたっているジャンクフード店(あえてそう呼ばせてもらう)の店主も、同様にこれは食べ物くんである。驚くべきことに、四季を重んじ、花鳥風月を愛する、宇宙船地球号の同じ乗組員なのである。

 

命を頂いているだけでも、それを捧げてくださった感謝の気持ちがあれば味などは本来二の次であって良いはずで、もちろんせっかく頂いている命を美味しく食べるというのはこれは真っ当な姿勢であり非難されるべきではないが、その美味しく食べるための味とやらだけを重んじ、命に対しての感謝が欠落しているどころか、あまつさえ美味いだの不味いだの、星三つだの、返金するだの、ガンコ親父だの、貴様ごちゃごちゃ言うとったら客ごと店焼き払うどこらぁ、とまではさすがに思わないが、我々は食べ物くんとしての姿勢を少し居丈高に在り過ぎているのではないかと感じる。

 

ならば我々は食べ物を食べなければ死んでしまうが同様に、飲み物を飲まなければこれも死んでしまうじゃない。食べ物にももちろん多少の水分は含まれているが、つーかスープなんてそのまんま液体であるが、やはり食べ物として提供されている液体と、飲み物として提供されている液体というのは全然別物であり、たとえば殺虫剤を製造販売している会社の社屋がゴキブリだらけだったらその社の製品は全く信頼性の無いものと思い込んでよいわけで、商売ってやっぱそういうところがインポータントなのではないかな、って思いますよね。

 

さて、そんな飲み物の代表格と言えばやはり水であろうか。ウォーター、それは飲み物界の巨星、それは飲み物のシンボル、それはレペゼン飲み物。

一説によると、食べ物が全く無くとも水さえあれば人間は30日間は生きるこのが出来るらしい。ただ、あれですよ、水さえあれば、と言っても、自慢の出窓に水の入ったボトルを置いておいて、自分はその傍らで本当の意味での百裂拳を打てるように飲まず食わずで日夜訓練しています、みたいな状況では30日間も生きられないですよ。水さえあれば、というのは、水さえ飲んでおけば、という意味なのでそこのところを勘違いなさらぬように周囲の方々、特におじいちゃんおばあちゃんには注意喚起を促してさしあげ、快適に冥土へ旅立てるように若い世代がお手伝いすることがこれからの超高齢化社会をサバイヴしてゆくコツであると我々は考えている。

 

以上のことから我々は、食べ物くんであり、また飲み物くんであるということがお分かりいただけただろうか。

 

食べ物くん?飲み物くん?いやいや(笑)、なんで、くん付けなんですか?食べ物ちゃん、や、飲み物ちゃん、といった、ちゃん付けでも良いではないですか。それって男性社会で、男尊女卑で、ウーマンリヴで、そしてフェミニストのシワシワタマキン野郎の発想ですよね。

 

なんて憤るご婦人方、ヒゲが薄っすらと生えている系のご婦人方、ここ何十年とおさげ以外の髪型にしたことのないご婦人方がいらっしゃいますが、我々としてはあくまで男女関係なく最も波風の立ちにくい呼称としてこの、くん付けにしており、たとえば稀に、上は"第19回 国際いきいき愚民マラソン"なるプリントが施されたメッシュ素材のランニングシャツに、下は太もも半ばほどまでしかないてらんてらんの短パンを履き、首からタオルをかけているような、どう考えても市民ランナーな格好の方がおられますが、我々なんかはそういったランナーな方を電車内で見かけると、「いやいや、走っていけや(笑)。」と無慈悲なジョークを言いがちであるが、そういった禍事を無くしていく、世に光りを与える。そんな気分を持ってがんばっているんです。みんな元気にやってるんです。

 

そんなことで、食べ物くんであり、飲み物くんな我々。