
「ピッチャービビってる!hey,hey,hey!」
「全然ビビってない!hey,hey,hey!」
「あピッチャービビってる!hey,hey,hey!」
「はい全然ビビってない!hey,hey,hey!」
両チームの怒涛の野次が飛び交う中、その喧騒を切り裂いたのは他でもない、マウンド上のピッチャー、その人であった。
「ほっといてくれ!」
両チームの選手はその一言に野次をやめ、マウンド上のピッチャーのことを鳩が豆鉄砲を食ったような顔(実際に見たことはないが)で暫時凝視していた。ピッチャーは両チームの選手の顔を端から端まで睨め付けた後に続けた。
「やめろやめろ!もうビビってるとかビビってないとか、それだけを言い合うのはやめてくれ!だいたいお前ら、もう7回裏だぞ。どう今日の俺の堂々としたピッチング、無失点やんけ!ビビってるやつが7裏まで無失点に抑えられるか?」
両チームの選手は押し黙ったままである。その態度に業を煮やしたのか、ピッチャーはグラブを取り、それをマウンドに思いっきり叩きつけてなお続けた。
「俺も無失点やけど、対戦相手であるお前らも無失点だ。両チーム無失点、いや、無得点だ!てゆーことはなに?これどう考えても打線に問題があるよね。お前らは一点も取れずにハニカミながらバッターボックスから帰ってかやがってよ。ほんで俺がマウンドに立ったらビビってるだのビビってないだのほたえ散らしてよ。恥ずかしくないのか!」
ここでキャッチャー立ち上がりマウンドに駆け寄ろうとしたが、すかさずピッチャーはこれを制した。
「おっと、寄るなよ扇の要。愛想も尽きたぜ女房役。毎回毎回マウンドまで来ては「大丈夫?ビビってない?落ち着いていこーぜ!」とか何とか言いやがってよ。兄貴的な笑みを浮かべてさ。つーか、よしんばビビっていたとして、この制球力なら大したもんだろうが。俺さ、貴様のリードよりも微妙にコース外して投げてるの分かる?というのも、貴様は己が捕球しやすいところでミット構えがちなのよ。でもそこって毎回微妙に甘いコースなんだよね。だからワザと少しコースを外して投げてますよ。あ、もしかしてアレ?それを俺がビビってコース外してるんだと思ってた?だとしたらビビらせたままでいいよね、なにしろ無失点なんだからよ!」
キャッチャーはピッチャーのあまりの剣幕に泣いてしまった。ピッチャーは未だ怒りが収まらないのか、マウンドの上で地団駄を踏みながら「泣きたいのは俺だぁっ!だぁえっ!ちゅぉおいっ!だぁらっ!」と意味不明な咆哮を上げていた。
この一連の流れを三塁裏のスタンドから観戦していて私ははるか昔、まだ小学生だった頃のことに想いを馳せていた。
小学生時分の毎日が煌びやかな思い出、忘れえぬ友情、初恋、そして失恋。
私を初恋を散らせたあの子は受験に成功し私立の中学に進むらしく、しかも小学生を卒業したら引っ越してこの町を出て行くそうだから、たぶんもう会えることは無いだろう。
卒業式から幾日か経って、家の近所を歩いていると、横断歩道で信号が変わるのを待つあの子を見かけた。水色の可愛らしい自転車。私もその横断歩道を渡るつもりだった為、あの子に追いついて一言声をかけようと横断歩道まで少し早歩きで向かった。が、しかし無情にも信号は変わってしまいあの子はトントンッと音が聞こえてくるような軽い身のこなし(くノ一でもないのに)で水色の自転車にまたがり、意外なほど速き初速で横断歩道を渡って行く。
「初速でそのスピードを出せるとは、女だからと甘く見ていた。しかし嘗めてもらっては困るな。此方とてサッカーボール少年団で鍛えた自慢の健脚があるのだ。この生娘が!」とダッシュ・私・ダッシュ。
未だ横断歩道の真ん中に至るか至らないかのところでヘラヘラと自転車を漕ぐあの子の横を一陣の風、つまり私が走り抜け、そのままあの子のことを振り返らずに家までダッシュで帰った。
未だに何故あの時あの子に声をかけなかった私なのか、何故ダッシュで駆け抜けてしまったのか、自分でもよく理由は分かっていない。別に声をかけたって無視されるようなことはないだろうし、卒業式から未だ一週間も経っていなかったあの時、よもや私のことを忘れているハズもあるまい。それが証拠は、私があの子の横を駆け抜けた時、あの子が「あっ」と小さな声をあげたのを私は確かに聞いたからである。あの子は駆け抜けた私の後ろ姿で、私を私とわかって呉れていたのだ。しかし私は止まらず振り返らずに駆け抜けた。一度は想ったあの子のことを振り切るように、別々の道、これから先は私立の中学でハイソサエティな生徒とハイソサエティな道へ進むあの子との今までを引き千切るように。
あの時振り返って二、三言会話を交わせば、私はあの子との関係を少しでも先の未来へ繋げることが出来たか。いや、それはおそらく無かったであろう。もうすでに、住む世界が違っていた二人であったし、私は肌でそれを感じていて、そしてそれが悲しくて私はダッシュで駆け抜けたのだ。おそらく。
あれからもう十数年の時が経って、私は横断歩道であの子を見かけたあの日を最後に、あの子とは一度も会えずに今に至る。今も何処かで元気にしているのだろうか。元気にしていることであろう。
グランドでは、未だピッチャーが怒鳴っている。
ピッチャー以外の全員がビビってる。