
少年時代に僕らのヒーローだったあの彼らは一体何処へ去ってしまったのだろう。
僕らが悲しい時や辛い時も、あの彼らのことを頭に思い浮かべるだけで何でもできる気がした。気合いが湧き出てきた。脳漿がスパークした。あの彼らのおかげでね。
あの彼らがいつ僕らの元を去って行ったのか、それとも僕らがあの彼らの元を去ったのか、どちらかわからない。
気づいたときにはもう遅くて、あの彼らの面影は今はもう、タンブルウィードを転がらす風になって吹き抜けるのみだ。
だけど今も待ってる。
あの彼らが僕らの前にあの颯爽としたナリで現れてくれることを待ち続けている。
きっとまた会えるさ。そうだろ?あの彼ら。
ということであの彼らにまた会えるという期待を込めた小品を拵えた。この小品が出来たとき僕は、「小品、討ち取ったり!」とあの彼らの口調を真似てみたもんさ。
詞を載せるので読んでほしい。あの彼らにも届くといいな。
グッバイ・ビリー・ザ・キッド
詞曲 コッキングヒーロー
煮るなり焼くなり好きにしな
お前の母ちゃんヤクルトレディ
なにがレディだババアじゃねえか
そんなことよりあの彼ら
グッバイ・ビリー・ザ・キッド
夏の終わりと一緒に あの彼らは何処へ行った
グッバイ・ビリー・ザ・キッド
風が冷たくなってきて もう口笛が聞こえない
踏んだり蹴ったりもうヤメだ
お前の父ちゃんピンパブ通い
パブでボラれて裸で土下座
それもいいけどあの彼ら
グッバイ・ビリー・ザ・キッド
幾月もつかの間に 僕らは大人になれたかい
グッバイ・ビリー・ザ・キッド
枕が臭くなってきて もう大盛りとか食えない
そんなことよりあの彼ら
グッバイ・ビリー・ザ・キッド
夏の終わりと一緒に あの彼らは何処へ行った
グッバイ・ビリー・ザ・キッド
また新しい夏が来るよ 必ず会えるさあの彼ら
この小品を耳にして、あの彼らが此処へまた帰ってくるとして、僕らにはらやねばならぬことがある。
それは、みなで協力してチームワークで事を成し終えた時に、よし、今日は宴ぞ!ひっくり返るまで飲む!店のビール全部飲む!いざ行かん、モンテローザグループ!おー!みたいに勢い勇んでさぁ飲むぞ飲むでとこれから始まる大宴会に向けて士気をどくんどくんアゲていっている最中に突如、
「あ、俺一旦家帰ってシャワー浴びてから合流するわ。店決まったら連絡して。」
などと吐かす不逞の輩、奴輩、貧乏人の小倅、小作人のコサックダンサーをこの街から一人残らず追放するということだ。
あの彼らの言うことには、みなで事を成し終えた流れで居酒屋なり飯屋なりに行く際に、一旦家に帰ってシャワーを浴びてから再度合流するというこの一連の行為は、人間として最低、下衆、カス、クズであり、なぜなら自分ひとりだけシャワーを浴びるということは、他のみなと違い自分ひとりだけフレッシュ、爽快、フローラルになるワケで、本当はみなもこの事を成し終えたばかりの汗みどろの身体をシャワーによってフレッシュ、爽快、フローラルにしたいという気持ちは有るには有るがそれを口に出さないのは、この、事を成し終えた勢いでモンテローザグループに流れ込むことに意義があると感じているからで、それは仮初めのフレッシュ、爽快、フローラルなんかでは到底替えが効かない、真にかけがえの無き出来事となり得ると理解しているからこそなのであるが、件のシャワー郎(軽蔑を込めてこう呼ぶこととした)はそういったスピリチャルな、精神論的思考は無意味と感じ、ただ自分自身のフレッシュ、爽快、フローラルのことだけを考えて生きているし、これからもそうだろうし、そんなことではあの彼らのような素敵にカリスマ性のある人間にはなり得ないということである。
僕らもシャワー郎のように、いつの間にやら自分自身だけのフレッシュ、爽快、フローラルを求めるだけのハゲへと変わってしまうのだろうか。それが大人になるということなのだろうか。それは人間として正しいのであろうか。
教えてくれ、あの彼ら。