
信じる者は救われる。てお前、ずいぶんとケチやのう。
救われてから信じる者もいるでしょうに。
だってそうだろう。人に自分のことを信じて欲しいなら、まず自分がそれなりのところを見せないと信じるに値する人間かどうか解ってもらえないではないか。それなりのアクションを見せて初めて「ボキは此奴を信じるとする。」となるように僕は思うんですが違いますかね。
それをね、いきなり「信じよ!」なんて言われてもね。まずお前は誰やねんとなるわけです。
そして「信じよ!」とか言いまくってる人に言いたいのは、一方的に信じられるヤツのことも考えてみろやっちゅうことですわ。
たとえば、すげぇヘッポコ鬼コーチが「俺はぁっ、お前のことは信じてるからこんなに厳しくしているだぁ!信じてなかったらこんなに厳しいトレーニング、そう、この濡れおかきが完全に乾燥しきるまで鉄扇で扇がせて、結果強烈なリストパワーを得らせようなんて考えにはならないので!今どう?濡れおかき、まだ濡れてる?あっ!触ってみ!ほら、ハーフドライくらいになっとおるがな。もうちょっとや!いけ!そして鋼鉄の手首を手に入れんしゃい!それが終わったら今度は猿が入りにくるタイプの露天風呂を探すトレーニングや!これはちょいとキツイぞ。なにしろ獣道ばかりの山に入ってもらうからね。結果強烈な足腰パワーを手に入れることができる!結果夢叶っていける!叶わない夢なんてないでしょ?熱く生きてナンボの世界!世界が遊び場!世界で遊ぼやっ!一歩踏み出したもん勝ち!信じてるよ!」とこういったアホの輩に一方的に己のことを信じ込まれ見込まれてなにやら奇妙なトレーニングを課せられるというのはそりゃあ迷惑だぜ、ということが解っていただけただろうか。
それが解ったら誰彼かまわず「さぁ、信じましょうぜ!あのお方は素晴らなお方。あのお方を信じることで我々もパワーもらって救われるからね。信じる気があるヤツはこちらの新規入信手続き書にサインしてもらって、そしてあとはまぁなんていうんですか、ほら、わかるでしょ?大人なら。タダほど怖いものは無いとも言うしね。タダが怖いならば、その恐怖から救われる為にはどうすればいい?ね。ほら、もうそれが第一救われになるワケですから。第一救われってなんやのって話ですけどね。変な話。」みたいな無理矢理な勧誘はやめておいて、今居る信者たちと共に仲良くやっていかば良いではないか。巻き込みない。
あと全然関係ないけど不器用アピールをかなりの頻度でしてくる人ってなんなんですか。なんか学生時代に野球部とか剣道部とか、そういったスポ根チックな体育会系の部活に所属していた奴輩に特にその傾向がよく見られる気がするんですけれども、飲んでいて何やらちょいと熱い話をし出したなとか思うと、いやもうその熱い話とやらがすでに引くんやけれども、やれ"人生一度きり"だの"全力で生きた証を残す""この人生最高やったって言って散りたい"とか言い出して、なんやその"散りたい"て、ワレは侍か!そんな使い古された比喩を使うなこの水呑み百姓が!なんて思いつつ虚ろな目で生返事をしておりますと相手方のテンションまたはションテンもいよいよアガッてきやがって
「でもやっぱさ、俺さ、不器用だからさ。不器用な男だからさ。」
なんてちょっとウルウルしながら呟きだすから此方もちょっと焦って、あ、このどう考えてもメンドくさくなる空気を変えねば!との使命感でもって
「ん?ぶきよう?武器として用いられてるってこと?君はウェポンなの?コンバット?チンコンバット!」
などのなんつって~節で返したりするんですけれどもそれに関しては完全無視(!)して続けて話しよることには
「不器用だけどさ、だからこそ泥臭くもがいてでも何かを成すみたいなさ、そういう生き方しか出来ないからさ。たとい泥だらけになろうと必死で足掻いてさ、そして這いつくばって泥だらけになっても必ず自分の意思、理想、夢、貫き通すんだー」
ここで一旦言葉を切り、それまで俯向きがちにボソボソ喋ってたクセに急に此方をバッと見上げて、目もバチーと見開いて決めセリフ。
「ーたとい、泥だらけになろうと。」
それなんやねん。何回泥だらけって言うねん。かっこええんかそれ。あとお前の場合は不器用やなくてただのアホやから安心せい。それが証拠はお前がさっきからどこで教えてもらったんか知らんけど聞こえの良いその"泥だらけ"とやらの綺麗事を弄して俺は何?お前を応援せなあかんの?具体的に何を成し遂げるの?よくわからんがそったらしょうもないセルフプロデュースが出来るだけの器用さというか狡猾さがあるではないか。不器用とアホを混同してるタイプのヤツいるよね。そんなお前みたいなロクに自己分析もできひんアホが何かを成し遂げるやと?笑止。そのまま一生泥だらけとか言うて生きていけや。毎日長めに風呂入ってるクセによ。アホが。
なんてやたらと攻撃的になる俺はまだまだ人間としてシットなのでこれはもしかしたら信心を始めた方がええのかな、なんて思ったりしているんですよね。