第六感ズム

 

君は感じたことがあるかい、第六感を。

第六感を知らない君なら、調べれば良いではないか。君は文明人であろう。知らない、わからないとあれば、それを調べる方法は幾らでもあるハズだ。それをいくら私が親切なタイプだからといって、藪から棒に「え?なに?第六感?知らんよ。知らんから教えて。」みたいな、そんなことは幼稚園児でもできまんねん。まず自力で頑張って調べてみて、それでもお手上げ状態になって初めて私に訊けば良いではないか。そしたら此方も鬼ではないのだ。ましてやお肉でもない。懇切丁寧に教えて差し上げますって。教えちゃうよーんって。その時初めてそうなるのと違いますか。

 

だいたい私はこう見えてなかなかの修羅をくぐり抜けてきた猛者であるということを勿忘草。千辛万苦に艱難辛苦。そう、それこそ濁流を掻っ捌き稲妻を食い千切ってここまでやってきたのです。まぁおかげさんで今もこうして元気でやってますわ。そんな私であるから、そう、そこらのモツ煮込みどもに比べて「あ、この方はこれ相当な猛者、人生の手練れやね。せっかくやし握手してもらおうかな。サインとツーショット写真もねだって良いだろうか。まぁ断りよったら断りよったで所詮そこまでの人間。コイツがね。世を謀って生きとおるわ。アカンやつやん。」みたいな視線を常に感じて生きているワケなのだ。

これはね、言葉にすると大したこと無いように聞こえがちであると思うんですけど、実際にやられてみなさい。視線感じまくってごらんなさい。

それはそれは類稀なるストレスですよ。もうストレスのアームストロング。いや、アームストロングは言い過ぎか。意味わからんし。

とはいえ、選ばれし者の恍惚みたいなのが完成に無いのかと問われれば、それは当然ゼロでは無くて、もちろんその辺の煌めき、快感はこれはビンビンに感じてるというのは否めないんですけれどもね。

 

考えてもごらんなさい。

どうですか。君の一挙一動が、一挙手一投足が、フルボディが常に世の剥き出しの好奇心に晒されているという状態をイマジンしてますか。してませんか。じゃあしてみてください。できましたか。

ならば、そのイマジンのなかでフル・モンティ、つまり一糸纏わぬ全裸、産まれたままの姿になるまで衣服を脱ぎ捨ててごらんなさい。そんなに見たけりゃ洗いざらい見せてやるよと、これが俺の生まれたままの俺だよと、そういう気持ちを乗せて一枚、また一枚と衣服を脱ぎ捨ててごらんなさい。

 

全ての衣服を脱ぎ捨てたその時、周囲の剥き出しの好奇心はもはや嬌声や悲鳴といった顕在せしものへと変化していることだろう。

君は総身を射抜くような視線を感じ、その視線が実際的なエネルギーに変わりでもすればすぐさその場で破裂音とともに爆散し血煙の柱が天へと伸びてゆく様を夢想をするだらう。

 

そして君は気づく。

 

「あら、なんかあれやな。気のせいか視線のほとんどがチンコに集中してるような。」

 

その感覚こそが第六感なんですよね。チンコに対する視線を感じ取る力、それが第六感なのや。死の匂い、という言葉があるがあれも第六感のひとつなのや。でもチンコに対する視線の方が第六感としてはピュアなものなのである。

 

一度で良い。そのピュアな第六感を君は感じてみるべきだ。それは君を大人へと、大人っつーか更なる深みを持った人間へと成長させてくれることだろう。一皮むけるってやつですな。まぁチンコの皮が一皮むけた場合も、これは成長なんですけどね。