
新しい自分、すこやかなる自分を発見するために、私たちはディスカバリージャンプを繰り返し跳びました。
ディスカバリージャンプを跳ぶ前の自分と、跳んだ後の自分の違いに、みな驚いて、きらめいて。ゆらめいて。
跳ぶ前の私、ハッキリ言って何も無かった私でした。
キノコ類全般が全く食べられておらず、ちょっとした椎茸が入っているだけでもその日一日サガッて気味のわがままボーイでした。
何に対してでも「それ俺がやった。俺が考えた。」と自己アピールを怠らず、おまけにファッションのどこかに必ず"N.Y"という文字が入っていないと落ち着かないというオシャレボーイでもありました。N.Yにはついぞ訪れたことが無いのですがね。
しかしどうでしょう、跳んでから後の私は。
みんなから"直線番長"というあだ名で親しまれ、どこかで掛け違えたボタンを掛け直し、かけがえのない仲間に恵まれて、仲間の屈託のねぇ笑顔。
お金で買えないトレジャーを多数いただきました。
もはや人生とはディスカバリー、発見の連続だと私は強く思うのです。
怖がるのをやめてディスカバリージャンプを繰り返し跳ぶことによって人生はこうも変わるものか。跳ぶ前には、変わってたまるかアホンダラとばかり思っていた私。
もう跳ぶ前の私には戻れないでしょう。あの甘くも切ない青春の日々。美しきモラトリアムの日々。
どこかに置いてきてしまった思い出は、誰かが拾っておいてくれたりするのかしら。
「どんどん変わっていくね。」
って君が何気なく言ったとき、変わっていくのは当たり前だよと思ったけどそれを口にしなかったのは、やはり私も"変わっていく"ということに対してどこか淋しさを感じているからなのかもしれない。
そしてその淋しさを誤魔化すためにディスカバリージャンプなんて繰り返し跳んでいるのかもしれない。