
僕はもう、ずっと長いこと待ってる。
「僕は人に自慢をしたことも、自慢をされたこともございません。えっへん。」
僕が繰り返し放つこの一言に「いやその発言自体が自慢やないかーい!最後にえっへんて言うてもうとるやないかーい!」とツッコんでくれる誰かが現れることを祈りながら日々を過ごしている。
僕ぁいつの間にこんな、待つタイプの人間になってしまったのだろう。ツッコまれ待ちをするような切ない人間に。嗚呼、いつの間にこんな、ボタニカルな人間になってしまったんだろう。
そう、ボタニカルというのは僕が考えたオリジナル英単語で、意味は「待つタイプ、積極的でないタイプ、またそういった感じの人。額が狭く原始人のような顔つきのオバハン。」という意味なんだ。使いたかったら勝手に使ってもらって結構です。いいえ許可など必要ありません。僕なんて所詮、その程度の人間ですゆえ。
そんなボタニカルな僕の最大の特徴と言えるのが、この見た目だろう。額の狭い顔つきにパサパサチリチリの髪の毛を肩まで伸ばしてセンター分けにし、パッと見はまるで原始人のやうな顔面をしている。それどころか服もボロボロの毛皮を一枚纏っているのみで、武器も棍棒しか持っていないという見た目はもう完全に原始人な僕なのだけど、でも心は現代人なのだけど、こんな僕に対して世間の目は冷たい。
街を歩けば僕の姿を見た人々はヒソヒソと「うわぁ、奴ぁ裸足だなや。」「ママー、見て見て。あの人裸足だよー。ねぇ、マ・マー」と陰口をたたき、中には明らかに、わざと僕に聞こえるように「裸足キモっ!」や「この裸足野郎!」、「裸足野郎に売る靴はねぇよ!」などとダイレクトに罵声を浴びせてくる輩までおり、そんな時僕はまるで自分がこの世の中から消滅していくよな、生きながらにして減っていくよな、悲しい感覚に襲われるんだ。足の裏の皮が減っていくよな、悲しい皮膚感覚に襲われるんだ。まぁ足の裏の皮はまた、分厚くなって復活するのみなのだけれど。
僕はもう、ずっと長いこと待ってる。
「僕は人に自慢をしたことも、自慢をされたこともございません。えっへん。」
幸せについて本気だして考えてみたら、僕は自分の放つこの一言に誰かがいつかツッコんでくれるハズという淡い希望を抱いて待つより、「今からボケるんでツッコんでもらっていいですか?」と自分から積極的に、ボタニカルだった昨日までの自分を捨てて、武器である棍棒も捨てて、自らの力で世を渡って行ったほうが良い気がするんだ。素手で。棍棒を捨てたゆえ素手。
考えてみてほしい。いや、考えなくてもいいのだけど、たとえば、今からボケるんでツッコんでくれよと言われてツッコまない人間がいるだろうか。いや、いないだろう。僕なら絶対にツッコむ。たとえ相手がどう見ても原始人であろうと。
そう。
いつか僕に子供ができたら、ノン・ボタニカルと名付けよう。決して僕のやうな、ボタニカルな人間に育たないやうに。見た目が完全に原始人な人間に育たないやうに。
そして赤の他人に対して「見やれ友よ。あれぞ裸足ぞ。裸足の男ぞ。」みたいなことを絶対に言わせないようにしよう。常に他人を慈しみ、愛し、そして無闇に自慢したりしないやうな子に育てあげるんだ。
そして何より、見た目が完全に原始人な人間に対しても、他のみなと平等に接するような優しい人間に育ってほしい。そして多くを望んで良いのならば、見た目が完全に原始人な人間がポツリとボケた際は、それなりにツッコんでやってほしい。それが僕の願いだ。