
他人とはいつだって、自分勝手でどうしようもなく関わるほどにストレスがバスバスに溜まっていくだけの不愉快で気色の悪いアホみたいな存在であるとしたら、我々人間の社会、人間社会は上手く回っていかれないのでなので我々は他人のことを知り、理解し、分かち合い、共に生きていってるワケなのだが、それでも関わり合いになる人間の中にはどうしても仲良くなれない、親しくなれない、一緒に夢叶えられない人というのが現れるだろう。
それはまあ当然のことで他人は自分ではないので基本的にはムカつくし減ってほしいものであるが、そのムカつく具合がなぜ相手によって差があるかというとそれは、相手への理解の深さの差によるらしいんですわ。ほら、こうしていきなり「~ですわ。」と語尾を上方の訛りでキメることに対する理解の深さで、他人は私にムカつき、あるいは共鳴し、歳がいったら一緒に歌舞伎を観に行ったりする。
このように、人と人とが関わり合いになるには互いに理解し合うことがめちゃくちゃ重要であるということがハッピネスな未来へと繋がるのはまぁええとして、当然として、もっと重要なのは、自分で自分のことを理解する、ということである。
得てして人は自分で自分のことを理解していると思い込みがちであるが、実際にはそんなことはほとんど無く、半分くらいしか自分のことを理解出来ていない場合が多い。というのも、人は ''自分から見た自分'' は理解出来ているかもしれないが ''他人から見た自分'' の事はほとんど理解できてない、それどころかもうド素人のスッペンピンの丸腰で風俗に行って勃起だけして帰ってくるみたいな、それくらい情けないほどに ''他人から見た自分'' のことは理解できていないのでやる。そして他人が自分の事を理解するとき、自分の何を理解してくれているのかというと、この ''他人から見た自分'' なのであーる。
ということはどういうことか。
他人とは、自分自身で最もよく理解している ''自分から見た自分'' ではなく、自分では知り得ることの難しい ''他人から見た自分'' を理解して自分と関わりあったり、また、離れていったりしているワケなんですな。
これを知って私がどう変わったかと言うと、正直言って何も変わらずにへらへらと過ごしてるのみなんですが、まぁこういう考え方もあるということで、ご笑納しなさい。