
正義に目覚め、正義に則り行動する。誰もがそうあれば世の中はより良く、光に溢れるものになることは間違いないが、実際には自分の正義を貫き通せない事ばかりで、日々自分の弱さアホさにしょげっちゃってて茫なので、せめて顕在的なもので自分の正義感のあり具合を証明しよう、寄付をしよう、と寄付マンは寄付をすることにしたけれど、アメリカの金持ちみたいに億単位の寄付なんて出来ないからどうしよう、どうも出来ない、ということで寄付マンは今日も1円も寄付しないまま、もうすぐ68歳になる母親に野球のルールの複雑なところ、でもそこが面白い、知ってると野球の見方が変わってくる、みたいな話を延々とし続けるのみである。
''延々と''を''永遠と''と間違えて言っている人をたまに見るが、そういう人を見るとアホやな、と思う反面、言葉とはこうして変わっていくもので、それを間違いだと鼻で笑っている私も、大昔の人が言い間違えて定着した言葉を使っているハズなので''永遠と''と言ってしまった人に対して鬼の首を取ったように「ハイ言葉の乱れー!言葉の乱れが出たー!ライラライ!言葉ライラライ!汝、アホであることを認めよ。」とか言うて殊更に騒ぎ立てる方がよっぽどアホで柔軟性のない人間であり、私はそのような人間になりたくないと強く思ってはいるものの、どうしても聞き捨てならないのが''~せざるを得ない''という言い回しで、アクセントを ''を'' にもってきてる人で、おそらくそういった人は ''~せざるを得ない'' という言い回しを、''~せざる終えない'' と勘違いしているのだろうけど、こうして文字に起こしてみるとどう見たっておかしな文であることは分かると思うし、てゆーかわざわざ文字にしなくても頭の中で充分おかしいと気づけるハズ、気づかないのはアホ、ちょっとくったような言い方をしてフンフンしたいからちょっとカッコいいから「オシッコせざる終えない!」とか言うてみたけれども結局は誰かの受け売りで自分の頭で何も考えてないからそんな変なセリフを大して変とも思わず吐かせるんだよこのアホ、と思ってしまうのは、エエ齢こいたオッさんが大上段から失礼しますみたいな感じの場で堂々とこういった言い間違いをするから聞き手のこちらは笑止、こんなアホなオッさんの言うことなどもはや聞く必要は無いと感じてただ無駄にアホなオッさんの話が終わるまでの時間を過ごさざるを得ない(正しさ)のでこの言い間違い、言葉の乱れはスルーできない私である。
みたいな話をもうすぐ68歳になる母親に話した後、寄付マンはハタと思いついた。
「わかった。もうわかった。僕みたいな新聞配達のアルバイトは億単位で寄付が出来ないのなら、小さなことからコツコツと。なにもゼニだけが世の中を救うワケではない。生きていくために最も必要なものを僕は寄付できるじゃないか。僕の身体の内側を流るる真っ赤な熱い液体、人間のガソリン。そう、血を・・・!」
そんなことを思い立ち、献血センターに向かう道すがらで寄付マンは、自分が貧血がちで、なおかつ注射が大の苦手であることを思い出した。しかし!正義とは時に痛みを伴うもの。その痛みを乗り越えたところに、真の正義が宿る。でも苦手なものは苦手なのだ。苦しいと思うことを成すのは正義か?私こと寄付マンが苦しい思いをして絞り出した血は果たして本当の意味で役に立つのか?血液は体調や心の状態に影響されやすいと聞く。となれば、苦しいと思いつつ献血をするということは血液に何らかの悪影響を与える。結果その血液を輸血された人にも当然悪影響を与える。
そんなことがまかり通っていいのだろうか…。
「正義とは悩みの末に得るもの。」
これが私こと寄付マンの座右の銘だ。今、私は悩んでいる。この時間こそが正義を得るための尊い時間なのだ。だから未だちょっと献血に行くのは悩みを続行しておくためにやめておいて、とりあえずこの悩める時間を大事にしよう。さあ、家に帰って母上に野球のルールの複雑な中の面白さについて話そう。
寄付マンは、正義は、常に悩めるものなのである。