
酒の席で、自分より先にヘベレケ入っちゃってメンドな先輩に鬼絡みの後いきなりツッパなってタメ語利いちゃってどつかれ、その衝撃でゲロっちゃうみたいな奴見ると、こっちは醒めてしまっていくら飲んだところでもうあんまり酔えない。みたいなことってよくある話で、自分より先にニルヴァーナ(涅槃)へ登りつめてる奴見るとちょっとこっちはサガり気味キープっちゃうみたいな、ギミギミキープみたいなことってあれは何故あんなことになるんですの?
というのが古来より言われている''人の振り見て我が振りを直せ''というやつで、要するに人の振りを見てそれがみっともないな、哀れだな、に思えたらそれを我はやらないでおこう、我を正していこう、ということなのですが、この''人の振り見て我が振りを直せ''の素晴らしきは、例えば道端に落ちている空き缶を通りすがりに拾ってゴミ箱へ捨てる、なんていう美しきソウルを持った人を見たときに
「ああ、俺はあんなさりげない善行をしたことがない。自分が捨てた訳でもない空き缶をわざわざしろってペールに捨てるとは。俺も真似してみよう。そうしよう。」
といった具合に悪い手本としてだけではなく良い手本としても他人の振りを見ようね。というメッセージも込められているのですな。
ということはどういうことでしょう。
そう。周囲が盛り上がってる時は、これは自身も盛り上がったほうが良いとされているので「あれ?なんか盛り上がるのサムイかも…。」とかは一切考えてはダメで、なぜなら''人のふり見て我が振りを直せ''というように、盛り上がっている人達を見て我が振りを直す、今私は盛り下がっているのでここはひとつ我が振りを直すため、今はただ盛り上がることにのみ集中する。1秒も盛り下がらない。さっきまでのテンションを下回らない。このままいっときたい。と本来ならなるベキなのです。
周囲の盛り上がりに合わせるのが並大抵の苦労ではない事を、私もよく知っております。もともと天邪鬼な性格ゆえ、周囲が盛り上がれば盛り上がるほど、逆に手前は醒めておきたい。ただ、醒めていたとして一体誰が幸せのことになるのですか。
周囲は盛り上がって、森みたいに盛り上がっている中でヤツ一人だけ全く森ではない、むしろこちらが森に成れば成るほど、ヤツは森ではなくなっていく。そうなるとその森ではないヤツのことが気になってきてチラ見を繰り返し、初めこそ「あら?これって恋かな?」と思っていたがすぐにそれは勘違いであると気づき「いやこれは恋ではない。ヤツだけ森に成れてない、成りアガれてないから気になってチラ見してしまうのや。そろそろ森に成れたかな?って。」と考えを改めた時にはもう手遅れで、周囲の人たちもたった一人森に成れてないヤツのことを気にし出してそれに伴い無邪気に森でいることが出来なくなり、次第に盛り下がっていく。ヤツはヤツで醒めており当然楽しくぬ。結果、全ては土に還る。
どうです?あんなに豊かだった森を盛り下げて不毛の地にしてしまった気分は。
だから言ってるのです、''人の振り見て我が振りを直せ''と。これを誰に一番言いたいかって、他ならぬ自分に言いたいんですけど、さっきも言ったとおり私こそいくつもの森を枯れた大地にしてきたテン下げピープルの代表格なので、次に豊かな森に遭遇した際には精一杯の森に成りアガろうと改めてケツ意するためにこうしてちゃんと文として残したかったんだな。