カインドネスをもう一度

 

例え話が下手な人には、特に慈悲な気持ちで、もって努めて優しく接してあげて下さい。

例え話とは不思議なもので、そんなに例えが巧く無い人ほど、やたらめったら何でも例えたがります。が、例えが下っ手くそなため、それを聞いた者は「あら?もしや食べ物を食べ物に例えている?悠々と話している?例えを私なりに解釈しようとしている間に話は進んでいる?同意を求められてる?」と混乱したアタマの中は茫とし、結果何も覚えていない、伝わってきてないが相手は先輩であることだし「あぁらそろれらね(笑)ぅはぁい(笑)」ってな感じに適当な何かをグチャグチャに言ってやり過ごすしか無く、自分の自分を持ってなさ具合に辟易し、嗚呼、こんな時アメリカ人やったら「で、結局何が言いたいんですか?」みたいな感じでハッキリ物言うたりするんやろか。そら戦争強いわ。とか思って自己嫌悪です。相手は自己嫌悪に陥るんですな。

 

たいてい例え話の下手な人はどっかで聞きかじった例えをベースに、単語やジャンルを入れ替えてオリジナルの例え話として上梓される場合が多いのですが、たしかにベースになっている例え話は分かり易く、ターゲットに理解されやすい例えなのに対し、例え話が下手な人はベースの例え話からの単語やジャンルの入れ替えのセンスが絶望的に悪く、その上TPOや相手の知能、興味を全く考慮せずに悠々と話し出すため、相手にとっては例えられたところでちんぷんかんぷん、むしろわざわざ例えたことで逆に伝わってない、という場合が多くなり、結果例え話なんて持ち出す割にはピンとこない例えしか出来ないアホというレッテルを貼られてしまうのですな。

 

そしてもう一つ、これは例え下手だけに限った話ではないのですが、''あの日の俺の名作例え''みたいなのを突如言い出す時あるよね、というところです。

「ほら、前にリンゴとバナナの例えで教えたではないか。」や「お前にはあのロボットばっかりの世界の例えが全然響いてないな。」等、いきなり以前発言した(本人的には)巧く言えた例え話をまた持ち出す、こちらに思い出させる、が、人間は忘るる生き物であるし、しょーもない例え話を覚えておく義理もないので思い出せない、思い出せなかったら不機嫌になりよる、というあまりにも自分勝手なバイオリズムで彼ら例え下手は今日も進んで行くのです。

「お前にこの事サイボーグの悲しみの例えで話したっけ?」や「先週くらいに俺が仕事をフーテンの心意気に例えた話って、誰かから聞いた?」等、自分の例えは逸品の教訓であるから、これは一つのパッケージとしてみんなと共有していこう、流布していこう、そしてみんなやらの間でジワジワと広まって世界に安穏をもたらせる、と思いこんでいるタイプも非常に多く見られますね。

 

身近にいると厄介なタイプであることは間違いないのですが、しかし考えてみてください。

 

彼らはいかに物事を他の事に例え、他者に伝わりやすくするかを非常に大事にしてくれているのです。

それは例えが下手とか、例えのせいでかえって伝わりにくいとか、それエビデンスって言いたいだけちゃうんか、とか、そういったこと以前の問題で、相手に少しでも分かり易く伝えたい、ピンと来て欲しい、そういった優しい気持ちからきているということをよく覚えておいてあげてください。

彼らは夜、ひとりの部屋で「あ、これを野菜ジュースにおけるケールの役割に例えたら誰にでも伝わりやすいかも!」とか急に思いつくのです。「あ、これを土鍋のターニングポイントに例えたら誰にでも伝わりやすいかも!」って。

もちろんそれが単純な優しさからだけきているのかと言えば、そうではないかも知れません。

人間はリビドーによってのみ行動を起こすそうですので、巧く(下手ですが)例えることによって周囲の人々から良く思われたい、尊敬されたい、インテリジェンスを感じて欲しい、性の対象として見てほしい、という気持ちも少なからずある筈ですが、それでも大前提として優しい気持ちから例え話を持ち出してると思ったら、思い込んだら、たとえ例え下手であっても、許そうという気持ち、昨日よりも少し優しい気持ちになりませんか?

 

向こうの優しさを受け入れることによってこちらも優しさを発揮する…。そういった優しさの連鎖が、人間社会では大切なことなのです。産まれた時から邪悪な人間などいないのです。誰もが持って産まれた優しさをもう一度、カインドネスをもう一度、例え下手に対して存分に発揮してみてはいかがでしょう。

下手には下手とハッキリ言うのも優しさかもしれません。確かにそうです。しかし私が今言ってるのはうわべだけの優しさの話です。実は親友や恋人以外には、優しさはうわべだけで充分なんですね。

 

本当にその人のことを思ってではない優しさ、うわべの優しさで、泰平の世も近づくんじゃないでしょうか