行者の難

 

何故私がこんな目には合わなければいけないのか。何故私だけがこんなに苦しまなければならないのか。私ほど辛い思いをしている者はいない。それでもどっこい生きている。そこを凄く褒めてほしい。もの凄く褒めてほしい。それも私のいないところで。それを私は人づてに聞くのよ。ほら、褒められるのって直接よりも間接、誰か一人挟んで褒められた方が嬉しいじゃないですか。直接だとなんか照れますし。''恩は遠くから返せボケ''という教えもあるでしょう。だからそれと同じことですよね。同じかそれ以上。''褒めは一人挟めボケ''これも大事なことやね。とにかく辛い思いをしている私と同じような方を見かけたら一人挟んで褒めてあげてください。それだけで報われるんですよ、私たちみたいな人間って。あなたの言葉で誰かが笑顔になる。素敵なことだと思いませんか。

と、自分のことを殊更不幸に仕立て上げ撒き散らし流布し、実は肚のなかでは、周囲の人間からの心配、慰め、褒め、励ましを好きなだけいただこう、いただけたらいいな、けたたましいな、なんて意識的または無意識に考え行動しているヤツにこう言いたい。

 

行者のほうがよっぽどキツい。

 

これを言うと「いやいやニーちゃん、それあれやん。後輩が、いやーこの資料作りには苦労しました。会社に泊まったりもしながら必死で仕上げました。とか言ってると、いや俺がお前くらいの歳の時なんか会社に泊まるのが当たり前やったで。週に二、三回は泊まってたんとちゃうかな。パンツもひっくり返して履いてたりして。そんなもん俺の時に比べたら苦労の内に入らへんて(笑)みたいなカウンターを入れてくる先輩みたいなコトやん。パンツひっくり返して履いてた?汚な。穢れやわ。そうゆうことでしょ?」と思うカマ野郎もいらっしゃるでしょう。しかしそうではないのです。マジで行者はキツいのです。

 

よく酒やタバコのことを、''百害あって一利なし''と言いますがこれは本当のことで、飲酒や喫煙は身体に良くないことばかりでがむしゃらにバッドなものであるということは皆さんも承知のところかと思いますが、行者はこれに似て非なるもの、''百害あって一理あり''。

身体に良くないことが百ぐらいあるけど、一つの真理、ことわりを得ることができるのです。それは神の草、マリファナみたいなもんですね。

 

その真理を得るために行者は、艱難辛苦、千辛万苦を乗り越えんベク日々修練に勤めるのです。その修練というのが、並大抵のキツさではないということです。

それは例えばラリアットのみで廃村を更地にしようとしていたり、屁だけで完璧にアヴェ・マリアを歌えるようにしようとしてたり、なるべく風邪をひかないようにしてたりと、各行者によって様々な、個性豊かな修練を勤めてあらっしゃいます。

 

しかも彼ら行者は、それらを誰かに褒められたい、一人挟んで褒められたいなどとは1ミリも思っておらず、ただ己が精神を悟りへ、高みへと持っていくためだけに今日も一人で修練を勤めるのです。どうです?なんか泣けてきませんか?

 

でも泣いたからといって真理は見えてこないのです。絶対に泣かない(お母さんが死んだ時を除いて)という修練を勤めている行者もいるのですよ。一人挟んで褒めてもらいたいなと、その為の私のオリジナル不幸よと、そんなことを周囲にアピールしているヒマがあるなら、マリファナの如き行者たちの修練にあなたも勤め、真理への道を追求されてみてはいかがか、と私は思うのですが皆さまはどうでしょう。