
主に唇の周りや場合によってはもみあげあたりまで生えることもある素晴らしきな毛のことをなんというでしょう。
正解、ヒゲ。
私には、全然ヒゲが生えない。
ごめんなさいね。いきなりこんな事言われたらビックリするよね。そのビックリで生えるヒゲもあるさ。いいなー。うらやましい!
ごめんなさいね。かねてよりのうらやましさにより、急激にテンションが上がっちゃって。でもホントにうらやましいのだから、許してくれよな。
私がヒゲに憧れるようになったのは、いつのことでしょう。
そう、あれはまだ私が小学生時分のころ、クラスで一番明るく元気で不潔な女子、ムヤコさんというメイトがおりました。
ムヤコさんは不潔なだけあって、毎日ほとんど同じ服装(誤解を恐れずに言うと、家が無い人みたいな格好です)で小学生ライフを謳歌しておりました。しかも自宅は節約のために電気を全然点けず真っ暗なクセに、やたらと明るく元気な性格をしており、ムヤコさんが元気に跳ね回るたびに周囲にはガード下のやうなスメルが漂うため、ムヤコさんは陰で''神に鼻をつまませる女''というインディアンネームみたいな、ご両親が聞いたら泣いてまうようなあだ名で呼ばれているのでした。
私が一番おもろかったのは、ムヤコさんには歯磨きという習慣が無かったため、歯がすべてボロボロだったのですが、それにより当時メイト達の間で大流行していたアニメ、「おそ松くん」に登場するイヤミというキャラクターのギャグ、「シェー!」が歯のすき間から空気が漏れるためうまく発音できず、「エー!」としか言えていないのが一番おもろかったんです。そんなこともあって、私は他のメイトたちよりも少し、ムヤコさんの存在に興味がありました。
なんかほとんど悪口になってしまっているのですが、ムヤコさんとはそういう人間なので仕方ないのです。
そんな男女問わず誰からも忌み嫌われている割には明るく元気なムヤコさんでした。
私がそんなムヤコさんみたいなもんに一目置くようになったのはある出来事がキッカケです。
それはある夏、午後の体育の授業で私たちのクラスは、校庭でポートボールをプレイしていたのです。
すると突然晴れ渡っていた空が真っ黒い雲に覆われたかと思うと、けたたましい風の音とともに、天がバケツをひっくり返したような大雨と地を揺らす雷鳴が。突然のストームっぷりに、私たちメイトはそれぞれに叫び声を上げながら校舎の中へと避難して行きます。しかしそんな中、降り注ぐ雨と吹き荒ぶ風に逆らって、ジャングルジムを上へ上へと登る影がありました。稲妻に照らされて浮かび上がるボサボサ髪の原始人のようなシルエット。
ムヤコさんだ!
ムヤコさんがストームを恐れずジャングルジムをクライムしていく!
周りのメイトたちも徐々にムヤコさんの蛮行に気づき始めました。
「なんであんなことするの?」
「おっかねーなぁ」
「あいつなんで笑ってんだよ」
メイトたちがムヤコさんに対する批難を遠慮なく口にします。私はというと、登りきったジャングルジムの頂上で、これといった理由もなく大自然にたった一人で立ち向かうムヤコさんに対し、「嗚呼、その昔、信仰の対象となり得た人というのは、ムヤコさんみたいな人だったのだろう。」と太古のストーンエイジに想いを馳せておりました。
''いま、ここに生きる歓び''
ジャングルジムの頂上で、雨風をものともせず虚空を睨みつけるムヤコさんの姿はまさに生命の体現でありました。
ストームの轟音に掻き消されそうなムヤコさんの雄叫びを、私は確かに聞きました。
「こんなもんコインシャワーみたいなもんやで!天然のコインシャワーや!ガハハハ!」
突然の嵐が過ぎ去り、次の授業が始まる直前、ガラリと勢いよく扉が開きました。
教室じゅうの視線が扉へと集まります。そこにはもう濡れるところがないくらいに全身ずぶ濡れになったムヤコさんの姿がありました。私もメイトたちも言葉を失い、しばらく私たちの教室は時の流れを止め、この広い宇宙でたったひとつの動いていない空間となりました。
ムヤコさんはというと、誰に向けているでもない視線を教室内のメイトたちに向け、睨んでいるような笑っているような、どちらともいえない表情で、私たちのことを見ておりました。薄い扉一枚で隔てられたこの世と黄泉の端境を突破するように、ムヤコさんは教室内へと静かに足を踏み入れました。
一歩踏み入れればずんずんと自分の席に向かって歩みを進めるムヤコさん。獣のような匂いが教室に立ち込めます。ムヤコさんがこのときどういう感情だったかは誰にも知りようがありませんでしたが、教室じゅうのメイトのみんなが同じことを感じていたと思います。
「しゃべりかけたら殺される。」
思い過ごしかもしれませんが、ムヤコさんが私の横を通り過ぎるとき、私のほうを一瞥して、少し笑いかけてくれたような気がしたのです。
その笑った口元に光る、濡れて張り付いていつもより濃く見えるムヤコさんの鼻と上唇の間にフッサリと生えたヒゲ。そう、ムヤコさんにはヒゲが生えていたのです。それもうっすらではなく、ハッキリと黒いヒゲが。とはいえ男性に生えるような硬い毛ではなく、腕毛のような柔らかな毛です。実際に触れてはいないのであくまで予想でしかありませんが、見た目の質感と、いくらなんでも小学生の女子にオッサンのように硬いヒゲは生えないだろう、生えないでいてくれ、というのが私の見立てでした。
私は露が光を反射するそのヒゲを見たとき、ロックはまだ死んでいないことを確信しました。
ムヤコさんが進んだ跡に残る水滴の轍は、私たちが忘れかけている原始の衝動を思い出させてくれました。
驚いたのはその後、教室に入ってきた先生が、ムヤコさんに対して一切ノータッチだったことです。ムヤコさんは先生やメイト、いや学校そのものから解き放たれ、自由な存在へと己を昇華させることに成功したのです。それ以来私の中で、ヒゲはロックと自由の象徴となりました。私もカケラでもいいからムヤコさんに近づきたい、ああいうふうになりたいと思い、今でもヒゲが生えることを願う毎日なのです。
余談ですが、ムヤコさんはその翌年の夏休み明けから急に学校に来なくなりました。メイトたちは口々に下世話な噂を立てておりましたが、どこにも真実らしきものはありませんでした。先生と仲良くドッヂボールをするメイトたちに、ロックの行く末がわかるはずないじゃないですか。