
人に贈り物、プレゼントをするといった行為は非常に尊く、崇め奉られるべき崇高なアクションでございますが、プレゼントするモノのチョイスによっては、あなたはとんでもなくセンスの悪い、体育会系な、およそデリカシーの欠如した快活クソ人間と相手に思われても、これは仕方のないことなのです。
たとえば私のイグザンプル。
親しい後輩であるマハドがお土産を持って私の室に訪問してきてくれた時のことです。
「ガイア様。去る三連休、私は鬼怒川へと湯治へ洒落込んでコマしていたしました。湯加減はとてもよろしく、料理はそれなりでした。とても良い湯治となりました。幸せでした。ということでガイア様にお土産を買って参りました。通常、目下の者が目上の方へ手土産などを渡す際、「これ、つまらないものなのですが」なんてふうに謙虚さをことさらにアピールするものの言い方をするものですが、そもそも自分でつまらないものだと思っているものを目上の方に渡すのは失礼ですし、つまらんもんなんか持って帰れやとアホの方々は思うのですが、これはあくまで「私にとってはイケてる感じのものなのですが、あなたのような目上の方にとっては”つまらないもの”かもしれません。なので”つまらないもの”と、ここはあえて申し上げておきます」といった意味での”つまらないもの”のことなのです。しかし私が今回ガイア様に買ってきましたお土産は目上の方であるガイア様から見てもつまらないものではございません。言うなれば、爆笑のものでございます。どうぞこの爆笑のものをお納めください。」
とすごいネタ振りの後に私に綺麗な包装紙で包まれた小包を渡してくれたのでした。私は例によって例の如し、白人のガキのように、ビリビリに包装紙を破って部下のくれた手土産を開けるのでした。
息を切らしつつビリビリに破いた包装紙から姿を現したのは、ピンクの布。
「あ、これはいらんやつやな。」と長年の経験からすぐに察することができました。
布をつまみ上げ、ばさっと広げてみると、それはTシャーツでございました。
そのTシャーツの前面には、ピンク地に白のゴシック体で「米騒動」とでかでかとプリントされておりました。私は単純に疑問に思ったのでマハドに問いかけました。
「マハドよ、これはなんだ。」
マハドは私をまっすぐに見据え、私になにかを期待しているであろう目で答えました。
「はい、これはおもしろTシャーツでございます。」
おそらく私に笑ってほしかったであろうマハドの期待に応えられず、私は極めて冷静に土産として渡されたTシャーツを今一度眺めました。
おもしろTシャーツであった。
おもしろTシャーツを天下の往来でこれ見よがしに着ている人は十中八九なんの才能もない気の毒な人であるというのは我々の業界ではこれは当たり前のことなのだが、マハドはそんなことは想像もせず私におもしろTシャーツを土産として持参してくれたのです。
このTシャーツを私はおそらく着ないだろう。こんなものを着て外に出歩いた日にはすれ違う全ての人々から蔑んだ眼差しを向けられ、精神崩壊の後に万引きを繰り返すことは火を見るよりも明らかである。
このTシャーツは家に帰ったらすぐに、愛犬のジャックラッセル・テリアのジャッキーのおもちゃ箱、”ジャッキーの噛み噛みトイボックス”にぶち込まれた後、時が来ればジャッキーによってズタズタに噛みちぎられるでしょう。なぜなら私はこのTシャーツをワードローブに仕舞ったところで、決して着ることはないし、それならジャッキーのおもちゃにした方が、まだいくらか活用できると考えるからです。
つまり私が言いたいことは、プレゼント、お土産には、決しておもしろTシャーツを選ぶなということです。
なぜならおもしろくないから。
ただしここで勘違いしてはいけないのは、街でおもしろTシャーツを着ている人を見かけたからといって、決してその人のことを、おもしろくない人、なんの才能もない人だと早計してはいけないよ、ということです。
そういったTシャーツを着ている人の中には、それしかTシャーツを持っていない人もいるのです。よろしくお願いします。
余談ですが、マハドは愛用している銀色の缶のペンケースに”脳みそ筋肉”、”主将で補欠”、”野球バカ”といった筆文字が書かれているステッカーを貼り付けておりました。
ここまでやって初めて、その人はセンスのない人間、才能のない人間だということが証明されるのです。みなさんも存分に注意して、そういったセンスのない人間とは一定の距離を取るようにいたしましょう。