
会議が煮詰まって、もうどうにもこうにもな時、我らがテン部長(ノンベルト派)は決まって、がたりと席を立ち、自慢のサスペンダーの両ベルトに親指をねじ込みてみなにこう言うんだ。
「みんな見とけ。な。これがテン部長の、サスペンダー部長の答えや。」
そしてゆっくりと息を吐きながらサスペンダーを前方にギリギリと、腕が伸びきるまで伸ばした後にしばしストッピング。してサスペンダーを親指から離す。
バチィンッ!
「ぁ痛あっ!サスペンダー!もうよせ!よせって!よせよせ!よせー!」
このテン部長の一連の行動がみな苦手で苦手で。ね。みんなね。
何が苦手かといいますとまずこの行動によって煮詰まった会議がどうにかなったことが一度もないということがあるんですけど、加えてテン部長は自分自身のことをジャりんこチエちゃんのテツみたいな、男らしい人間であると思い込んでいるフシが散見されるのですが、実際はというとコテツのキンタマみたいな、情けない風貌をしており、そんなしょぼくれた見た目のおじさんが自身のサスペンダーを引き絞って体にばちんと打ち付ける行為は見ていて気持ちのいいものではなく、テン部長にその自覚があるかは計り知れないのですが、なにかマゾヒスティックな、見てはいけないものを無理やり、しかも本人主導の下で見せられているといった逃げようも助けようもない地獄感、無駄な時間感、そして痛みにのたうち回るテン部長のまったく尊敬できない感が相まって、会議が煮つまりテン部長がスーツの上着を脱ぎだすとみなは「わたしはもう解決策が実はありそうです。」「一旦休憩にしますか?しましょ。」「煮詰まってませんよね。これで煮詰まってるんなら煮凍りなんかぐずぐずでっせ。」みたいなことを口々に言い連ねて何とかテン部長のサスペンダーショーを回避するべく奮闘するんですが、当のテン部長からするとそれは可愛い部下たちが自分に送っているSOSに聞こえ(悲鳴になっていない悲鳴)、義侠心にいよいよ火が着くばかりなのでした。
しかしテン部長自身、このサスペンダーをばちんすることに何の意味もないことにはとっくの昔に気付いていました。とっくの昔というのはそれはもう昔の話で、それはまだテン部長が小学校の生徒だったくらい昔のことに遡ります。
それが証拠にテン部長は小学校の頃、母親のテン母に対し「僕は将来的に部長みたいなことになるのですが、その時に会議が煮詰まったらサスペンダーをばちんしなす。でもそれって意味あると思いますか?ないんですよね。でもやるんです。するとどうでしょう。煮詰まっていた会議が一瞬僕のパフォーマンスに気をとられて完全に停止するではありませんか。そしてひとくさり僕のパフォーマンスに対してのリアクション(これは回を重ねるごとに薄くなっていくとは思いますが)をとったあとにまた会議に戻る。するとどうでしょう。今まで煮詰まっていた会議が、一旦違うもの(サスペンダー)を挟む(サスペンダーだけに)ことでなにか違った視点、サスペンダーからの視点が生まれ、あら不思議、今までの停滞が嘘のようにまた会議が動きだすではありませんか。つまり僕が将来行うこのサスペンダーによるパフォーマンスとは、会議に煮詰まったみなを一旦別のことに集中させて、違う方向から物事を見せるための一種の荒療治なんですね。」みたいなことをほざいていたそうです。
確かに、テン部長が部長に昇進してこのパフォーマンスをやり始めた何回かは(せいぜい2、3回)はそういった効果もあったといえばありました。しかし、本人も自覚しているとおり、回を重ねるごとにその効果は薄れつつあるのです。でもテン部長にはサスペンダーしかないんです。どうしてそれをみなわかってあげられないのでしょう。私はそれが悲しい。嘘です。