
深夜の住宅街。俺の革ジャンの擦れる音とスニーカーの靴音だけがしている寒空の下、一匹の黒猫が俺の前にてててっと現れた。短くなってしまっている尻尾は他の野良猫との喧嘩のせいだろう。街灯に照らされた二つの目玉が緑色に光っている。
俺は猫が好きだ。かわいいもの。そしてあの”飼い慣らされない感じ”に憧れる。野良猫はもちろんのこと、飼い猫ですら「この家の人間は全て私の下僕なの。跪きなさいこのカスども。」みたいな態度が全開なのにも関わらず、なのに飼い主は嬉々として猫様の世話を一生懸命する、愛している。人間と猫とのそんないびつな関係性も素敵だ。
そして犬も猫と同じくらいに好きだ。かわいいもの。
よく猫派か犬派かみたいな話題で仲間(一人もいない)と盛り上がることがあるが、まぁそんなときに「自分どっちも好きっす。犬、猫、どちらも同じくらい愛しております。」などと答えると、こういった「どっちが好き」系の話題で「どっちも好き」と答えるのは一番その場を盛り下げる、話が次に進まないのにも関わらず「自分は自分に嘘つきたくないんで。確固たる自分を持ってるんで。自分貫きたいんで。あなたは自分貫いてますか?やっぱ人間、自分貫いてナンボですよ。人の目気にせずに自分の道を行きましょうよ。だので僕は今日も鼻息荒く、自分を貫くべくふんふんしてるんですよ。もう一回言いますけど僕は犬も猫も、どっちも好きなもんは好きなんで。」なんて無駄に我が道を行くウエストポーチ系の人間になってしまっては事なので僕はその場の空気にあわせて犬か猫かどちらがより好きかをしっかりと答えるようにしているのですが本当は犬も猫もどっちも好きなんです。自分貫けてないです。
てゆーかそもそも自分なんていうものはないのです。僕が昔或る人に言われたことでとても印象に残っているのが「人は自分から見た自分しか知らない。他人から見た自分を知らない。自分なんてあってないようなものなのだよ。おつかれさん。」という言葉です。
俺は思いました。「確かにそうですよね。」
そこから先は、僕は水のような人間になりたいと思い日々を過ごしております。水のように、入る容器に合わせて形を変え、周りの温度によってカチカチになったり蒸発したり、あるいは誰かの渇きを癒し、草や木を成長させる、そんな水みたいな存在。
でも「俺という自分は水みたいな存在になりたいので。自分は水なんで。水でありたい自分を貫きますので。そういった水という確固たる自分を持ってます。なので人から「いや、おまえは扇風機になれ。ここはとりあえず。この場だけでいいから。」みたいな事をさんざお願いされてもならないです。水なんで。自分持ってるんで。そんなことより俺のウエストポーチ知らん?どっかいってんけど。」っていうのもこれは違いますよね。水みたいな存在でありたい自分に固執しすぎて結局自分を持ってしまっている。マイウェイ系の人間になってしまっている。
こうして駅から家までへらへらと歩いているだけでそういったややこしやな考えをぐるぐると続けてしまうのは、今が深夜で周りの家々も寝静まっているからで静かだからで、冬の寒さだからで、あぁ、自販機でホットなコーヒーでも買おう。寒いし。と考えウエストポーチから小銭入れを引っ張りだす俺であった。自分自分、自分。
追伸
”減刑ヘゾマンシャン”とは俺が考えた椎名林檎っぽいタイトル。