みよし活動の隆盛と衰退

かつて地球規模、いや自治体規模で大規模な市民活動、「みよし活動(以下、活動)」というがあったことをご存知の方は、今はもうそんなに多くはないでしょう。あったんですよ、そーゆーのが。

老若男女問わず活動にその身を捧げるもの達のことを人は、”みよし活動の人”と呼んでいたとかいないとか。

今回私は当時のみよし活動の人から実際に聞いたお話をもとに、虚実ない交ぜにその隆盛と衰退について書き尽くしたいと思い筆をとりました。キーボードという名の筆を。パソコンのキーボードです。

まずことのおこり、つまり「みよし活動」がいかにして生まれたかについて詳しく書かなければなりません。当時の方々にとってまさに革命であったこの活動がいかにして生まれたかを。

いわゆる”みよしの創世記”と呼ばれる時代ですね。ジェネシスですね。

この時期の活動に関しては諸説あり、専門家のあいだでも意見がわかれ、そしてまとまり、寄せては返す波のように、寄る年波には勝たれへん、そんなことを言い出す輩もいるみたいですから。マジですから。いわゆる”みよしの参考文献”と呼ばれる専門書にその辺のことがなんやかんや書いてあるです。是非読んでみてくださいね!

そんな活動の知名度をいっきに世界規模にしたのが、そう、”みよしの大健闘”と呼ばれている時期です。

みなさんのお耳に「みよし活動」の名が響き渡り、鳴響き、知れ渡ったのがこの時期であると思います。街はみよし活動の人で溢れかえりました。響き渡りました。かなり邪魔でした。当時まだ幼かった私ですら「みよし活動の人すっごい邪魔」と感じていたことを、いまでも、まるで昨日のことのように思い出せます。あれは邪魔でした。

しかしそんな”みよしの大健闘”な時期もそう長くは続きません。

みよし活動をはじめに提唱した関西在住のおばあちゃん(きみえ)が、増えすぎたみよし活動の人たちによって道を塞がれ、家から出られなくなってしまいます。おばあちゃんは泣きながら助けを呼びました。しかし活動の狂乱の最中、おばあちゃんが助けを呼ぶあまりにも小さすぎる声は届くはずもなく、気づいた時には餓死寸前、パッと見流木みたいになってからようやく発見されたのでした。

自らが提唱した活動によって自らが死にかける、流木みたいになる。しかしせっかく波にのってきたこの活動にブレーキをかけたくはない。おばあちゃんはそれこそ死ぬほど悩みました。ほとんど死にかけでした。流木そのものでした。

活動に対し迷いがでてきたこの時期を”みよしの自己矛盾”と呼びます。

みよしの自己矛盾の時期はハンパなく長いあいだ続きました。そのあいだも街にはどんどんみよし活動の人が増え続け勢力を強め、逆におばあちゃんはどんどん悩みどんどん痩せ細っていきました。

そしておばあちゃんは悩み抜いた末、ひとつの答えを出します。

「よし、一度活動の総決算をしよう。」

これがかの有名なみよしの総決算、通称”みよしの総決算”です。

それはおばあちゃんにとって、ながいながいノリツッコミのようなことでした。今となっては笑い事、爆笑モノのみよしの総決算ですが、当時活動の革命の螺旋の中にいた人たちの中には少なからず反対派もいたそうです。

おばあちゃんはそんな反対派の人たちの一人ひとりをガン無視し、活動は一度総決算、そして一旦凍結させます。

活動の旗手であった関西在住のおばあちゃん(きみえ)がそんな風に日和ってもうたもんやから、さすがに市井に溢れるみよし活動の人たちの勢いも衰えてしまいました。新聞やテレビでも、活動のことが報道されることはほとんどなくなりました。

あれから十数年経ちます。

あれから十数年経つということであの関西在住のおばあちゃん(きみえ)が亡くなっちゃったということで記念的な感じでみよし活動のことを詳しく書こうと思ったんですが、読んでいてわかるように途中から完全に飽きてしまいましたのでもうこの辺で筆を置きたいと思います。

 

あ、おばあちゃんはみよし活動の復活を企てる地下組織のアジトに単身乗り込んで組織を壊滅させたのちに力尽きたそうです。仁王立でこと切れておられたそうです。すごいっすよね。